アルベルト・シュヴァイツァーは、その「イエス伝研究史」において、
「すべての神学者のイエス伝は、その神学者の意識の投影である」と言った。
同様のことが、新約聖書の福音書そのものに対しても言える。
イエスの論敵として、ルカ伝記者が「ある者(τινεσ)」というところを、
マルコ伝記者は「律法学者(γραμματευσ)」に変え、
マタイ伝記者は「パリサイ人(Φαρισαιοι)」に変え、
ヨハネ伝記者は「支配者(αρχιερεισ)」に変えている。
どの福音書の記述が史的に正しいのかは、実際のところはわからない。
しかし各福音書記者が想定したイエスの論敵を知ることによって、
各福音書記者の論敵を知ることができ、各福音書記者の福音の質を知ることができ、
ひいては、彼らの目のフィルターを通したイエスの姿を垣間見ることができる。
歴史を重んじるルカは、不透明な記録に関しては、自身で特定しない姿勢をとる。
客観的な歴史的記録を尊ぶ姿勢は、ギリシャ人から生まれたものである。
(ユダヤ人は歴史的記録を神の御心の啓示として読むから、あまり史的順序を重んじない)
ギリシャ人であるルカらしい姿勢である。
使徒の権威主義的傾向に反対するマルコは、力なき民衆に手を差し伸べず、
神学論争にふける律法学者を嫌う。
同様に、神に服従しない宗教的権威者を嫌うマタイは、
その論敵としてパリサイ人を登場させる。
イエスを引き渡し殺したのは、世全体であると考えるヨハネは、
イエスの論敵として支配者を挿入してくる。
「すべての福音書のイエスは、福音書記者の意識の投影である」
一見、上記の主張は、福音書の恵みを破壊するように聞こえるかもしれない。
しかし、かかる科学的・心理学的観点が、逆に彼らの宣べ伝えるイエスの姿を明確にし、
よりイエス・キリストの姿を知ることができるのである。
すべての神学論争を忌み嫌い、民衆の味方として復活者としてのイエスを描くマルコ。
世全体のために生き、世全体によって殺された、創造主としてのイエスを描くヨハネ。
約束された契約の成就者として、我々が従うべき王としてのイエスを描くマタイ。
世界史の中心として、一切の苦しみを口にせず泰然自若として突き進むイエスを描くルカ。
故に、福音書の記事の矛盾に思い悩むのは、全く無駄なことだ。
記事の矛盾は、イエスその人の姿にあらずして、福音書記者の意識の違いにあるのだから。
「すべての神学者のイエス伝は、その神学者の意識の投影である」と言った。
同様のことが、新約聖書の福音書そのものに対しても言える。
イエスの論敵として、ルカ伝記者が「ある者(τινεσ)」というところを、
マルコ伝記者は「律法学者(γραμματευσ)」に変え、
マタイ伝記者は「パリサイ人(Φαρισαιοι)」に変え、
ヨハネ伝記者は「支配者(αρχιερεισ)」に変えている。
どの福音書の記述が史的に正しいのかは、実際のところはわからない。
しかし各福音書記者が想定したイエスの論敵を知ることによって、
各福音書記者の論敵を知ることができ、各福音書記者の福音の質を知ることができ、
ひいては、彼らの目のフィルターを通したイエスの姿を垣間見ることができる。
歴史を重んじるルカは、不透明な記録に関しては、自身で特定しない姿勢をとる。
客観的な歴史的記録を尊ぶ姿勢は、ギリシャ人から生まれたものである。
(ユダヤ人は歴史的記録を神の御心の啓示として読むから、あまり史的順序を重んじない)
ギリシャ人であるルカらしい姿勢である。
使徒の権威主義的傾向に反対するマルコは、力なき民衆に手を差し伸べず、
神学論争にふける律法学者を嫌う。
同様に、神に服従しない宗教的権威者を嫌うマタイは、
その論敵としてパリサイ人を登場させる。
イエスを引き渡し殺したのは、世全体であると考えるヨハネは、
イエスの論敵として支配者を挿入してくる。
「すべての福音書のイエスは、福音書記者の意識の投影である」
一見、上記の主張は、福音書の恵みを破壊するように聞こえるかもしれない。
しかし、かかる科学的・心理学的観点が、逆に彼らの宣べ伝えるイエスの姿を明確にし、
よりイエス・キリストの姿を知ることができるのである。
すべての神学論争を忌み嫌い、民衆の味方として復活者としてのイエスを描くマルコ。
世全体のために生き、世全体によって殺された、創造主としてのイエスを描くヨハネ。
約束された契約の成就者として、我々が従うべき王としてのイエスを描くマタイ。
世界史の中心として、一切の苦しみを口にせず泰然自若として突き進むイエスを描くルカ。
故に、福音書の記事の矛盾に思い悩むのは、全く無駄なことだ。
記事の矛盾は、イエスその人の姿にあらずして、福音書記者の意識の違いにあるのだから。
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