あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。
(ヨハネ福音書2-10/新共同訳)
イエスが起こした最初の奇跡である「カナの婚礼」。
結婚式でぶどう酒が足りなくなり、
イエスが水をぶどう酒に変え、
この貧しき新郎新婦を祝福したと解釈されている「カナの婚礼」。
これ、明確な誤訳というよりは、人間勝手な曲解である。
使徒ヨハネはイエスの受難の序曲を記述せんとしていること、
さらには、原語では「あなた(συ)」を強調していることから、
賛嘆の言葉というよりは、非難の言葉と解釈すべきである。
あなたという人は、良いぶどう酒を今までとっておいたのか!
(ヨハネ福音書2-10/私訳)
当時の結婚式では普通、最初に良いぶどう酒を出し、客を楽しませ、
酔っ払って味がわからなくなったころに、悪いぶどう酒を出した。
だから、良いぶどう酒を最初に出すことは、常識中の常識だった。
それが最後に良いぶどう酒を出したものだから、
「あなたは何で今まで良いものを取っておいたのか!?」
と管理者は非難したのである。
イエスの最初の奇跡、善意から出た奇跡が、
罵倒されるほどに誤解されたということ、
このことを、使徒ヨハネは言いたいのだと思う。
預言者の後に神(イエス)は来る。その逆ではない。
しかし人は、最上に良いもの(イエス)を、非難する。
彼は世を救うために来たのに、すなわち善意から来たのに、
「何で来たのか!?」と非難し、攻撃し、極刑を課したのである。
カナの婚礼は、イエスの生涯の縮図である。
人は、自分に似たもの、世から出たもの、
自分の好みに合うものは、おおいに歓迎するが、
自分と異質なもの、すなわち神には、
到底耐えられないのである。
カナの婚礼は、神の祝福の初めではない。
カナの婚礼は、イエスの受難の初めである。
カナの婚礼にイエスの悲劇を見ることによって、
イエスの十字架上の死の深刻さと、神の恩恵の強さが、
鮮やかに映し出されるのである。
(ヨハネ福音書2-10/新共同訳)
イエスが起こした最初の奇跡である「カナの婚礼」。
結婚式でぶどう酒が足りなくなり、
イエスが水をぶどう酒に変え、
この貧しき新郎新婦を祝福したと解釈されている「カナの婚礼」。
これ、明確な誤訳というよりは、人間勝手な曲解である。
使徒ヨハネはイエスの受難の序曲を記述せんとしていること、
さらには、原語では「あなた(συ)」を強調していることから、
賛嘆の言葉というよりは、非難の言葉と解釈すべきである。
あなたという人は、良いぶどう酒を今までとっておいたのか!
(ヨハネ福音書2-10/私訳)
当時の結婚式では普通、最初に良いぶどう酒を出し、客を楽しませ、
酔っ払って味がわからなくなったころに、悪いぶどう酒を出した。
だから、良いぶどう酒を最初に出すことは、常識中の常識だった。
それが最後に良いぶどう酒を出したものだから、
「あなたは何で今まで良いものを取っておいたのか!?」
と管理者は非難したのである。
イエスの最初の奇跡、善意から出た奇跡が、
罵倒されるほどに誤解されたということ、
このことを、使徒ヨハネは言いたいのだと思う。
預言者の後に神(イエス)は来る。その逆ではない。
しかし人は、最上に良いもの(イエス)を、非難する。
彼は世を救うために来たのに、すなわち善意から来たのに、
「何で来たのか!?」と非難し、攻撃し、極刑を課したのである。
カナの婚礼は、イエスの生涯の縮図である。
人は、自分に似たもの、世から出たもの、
自分の好みに合うものは、おおいに歓迎するが、
自分と異質なもの、すなわち神には、
到底耐えられないのである。
カナの婚礼は、神の祝福の初めではない。
カナの婚礼は、イエスの受難の初めである。
カナの婚礼にイエスの悲劇を見ることによって、
イエスの十字架上の死の深刻さと、神の恩恵の強さが、
鮮やかに映し出されるのである。
納得です。
教会は、間違った事ばかり離している。