万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、
私たちもソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。
(ローマ書9-29)
この8月は仕事も忙しく、なかなか原語読解も進まなかったが、
やっとガラテヤ書5章を読み終えたところである。
そしてガラテヤ書を読み進める度に、私の脳裏に浮かぶのは、
ローマ書の内容である。
このガラテヤ書は執筆年代からいっても、ローマ書の摘要と称してもよく、
パウロの遺作ともいうべきローマ書読解のヒントが、随所に散見される。
パウロがローマ書9-29において引用したイザヤ書10-22も、
ガラテヤ書にその読解の鍵がある。
パウロもわざわざ明記しているように(ガラテヤ書3-16)、
パウロは「子孫(σπερμα:スペルマ)」をもってキリストを指し示している。
すなわち、上記の聖句を訳しなおせば、下記のようになる。
万軍の主が私たちにキリスト(σπερμα)を賜わなかったら、
私たちもソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。
その道徳的頽廃により神に滅ぼされた地ソドムとゴモラ、
創世記の記述からすれば、娘と父が性交渉をするほど情欲乱れ、
客人をなぶり殺すことを欲するほどに民心は残忍となり、
最後には天からの火によって滅ぼされた地ソドムとゴモラ。
(ソドムとゴモラが焼き尽くされた結果として、死海ができたという)
もしキリストなくば、我々も同じように滅ぼされるだろう、と。
パウロがここで責めているのは、自分たちはキリストに救われているが、
キリストを知りもしないし知らない人々は、救いからもれているという、
キリスト者の非福音的態度である。
自分たちだけは特別だ、自分たちだけが救いを楽しみ謳歌し、
その他の人々はどうでもよいとする態度、
この態度ほど、イエス・キリストの十字架の生に反することはない。
イエス・キリストなくば、我らの生は滅ぼされるべきソドムとゴモラである。
しかし神は、イエス・キリストによって、この滅ぶべき人間を救い給う。
神は今も、この滅ぶべき人間を救いつつある。
そして滅ぶべき人間から新しきキリスト者を起こして、
福音を我儘に閉じ込めようとする旧きキリスト者に抗して、
福音を福音たらしめるのである(ローマ書2-15)。
私たちもソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。
(ローマ書9-29)
この8月は仕事も忙しく、なかなか原語読解も進まなかったが、
やっとガラテヤ書5章を読み終えたところである。
そしてガラテヤ書を読み進める度に、私の脳裏に浮かぶのは、
ローマ書の内容である。
このガラテヤ書は執筆年代からいっても、ローマ書の摘要と称してもよく、
パウロの遺作ともいうべきローマ書読解のヒントが、随所に散見される。
パウロがローマ書9-29において引用したイザヤ書10-22も、
ガラテヤ書にその読解の鍵がある。
パウロもわざわざ明記しているように(ガラテヤ書3-16)、
パウロは「子孫(σπερμα:スペルマ)」をもってキリストを指し示している。
すなわち、上記の聖句を訳しなおせば、下記のようになる。
万軍の主が私たちにキリスト(σπερμα)を賜わなかったら、
私たちもソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。
その道徳的頽廃により神に滅ぼされた地ソドムとゴモラ、
創世記の記述からすれば、娘と父が性交渉をするほど情欲乱れ、
客人をなぶり殺すことを欲するほどに民心は残忍となり、
最後には天からの火によって滅ぼされた地ソドムとゴモラ。
(ソドムとゴモラが焼き尽くされた結果として、死海ができたという)
もしキリストなくば、我々も同じように滅ぼされるだろう、と。
パウロがここで責めているのは、自分たちはキリストに救われているが、
キリストを知りもしないし知らない人々は、救いからもれているという、
キリスト者の非福音的態度である。
自分たちだけは特別だ、自分たちだけが救いを楽しみ謳歌し、
その他の人々はどうでもよいとする態度、
この態度ほど、イエス・キリストの十字架の生に反することはない。
イエス・キリストなくば、我らの生は滅ぼされるべきソドムとゴモラである。
しかし神は、イエス・キリストによって、この滅ぶべき人間を救い給う。
神は今も、この滅ぶべき人間を救いつつある。
そして滅ぶべき人間から新しきキリスト者を起こして、
福音を我儘に閉じ込めようとする旧きキリスト者に抗して、
福音を福音たらしめるのである(ローマ書2-15)。