それゆえ、イエスは彼に向かって言った。
あなた方は奇跡と驚異を見なければ、決して信じない。
(ヨハネ伝4-48)
イエスを熱狂的に迎えんとする群衆に対し、
イエスが言ったとされる言葉である。
「あなた方は、奇跡を見なければ信じない!」と。
この「あなた方」が誰を指すかによって、
この聖句の意味合いは変化してくる。
ヨハネ福音書記者の意図からすれば、「あなた方」とは、
息子の癒しを願った宮廷役人やイエスに群がる群衆以上に、
十二使徒を指しているのだと思う。
その理由の第一は、ヨハネ福音書記者が、
カナの婚礼とこの記事の比較を示唆していることだ(4-46)。
カナの婚礼とこの箇所の記事は、
ちょうど長さも同じ、舞台設定も同じ、周囲の反応も同じ。
すなわち、著者はこの二つの記事を見比べるように示唆している。
そしてこの二つの記事の唯一の違いは、
カナの婚礼では十二使徒たちが奇跡を見てイエスを信じたのに対して、
宮廷役人は見ずして信じたということだけ。
イエスは明らかに、宮廷役人や群衆以上に、
他ならぬ弟子たちを責めているのである。
第二の理由として、ヨハネ福音書記者が十二使徒ではない人物だということだ。
十二使徒ではないヨハネという人物が、十二使徒の固陋な信仰を責めているのである。
私は原語聖書を読むまで、ヨハネ伝は使徒ヨハネが書いたものだと思っていたが、
ヨハネ文書とパウロ文書を読んでいくうちに、どうやら違うことがわかった。
ヨハネ文書は明らかにパウロ文書の思想を受け継いでいる。
パウロの福音理解が、徹底され爆発した姿が、ヨハネ文書の内容である。
それはまるで、ヘーゲルの精神現象学とエンチクロペディーのように、
カール・バルトのローマ書講解と教会教義学のように、
同一人物の処女作と晩年の作のようにさえ思えるのである。
パウロにとって救いとは、「もはや救われた(過去)」と「その時救われる(未来)」の間にある、
イエスの十字架と死人の復活の間にある、非常な緊張した状況を呈している。
しかしその緊張は福音書記者ヨハネにおいて徹底され、
過去と未来の狭間にある「今」、今この瞬間において、
イエスは永遠の命として我らの内奥に突入してくるのである。
(といっても、パウロにとっても聖霊による贖いの手付けは主張されているが)
このヨハネ文書が、パウロ生前の伝道拠点エペソ、
パウロ書簡成立の地であるエペソで流布していたことを考えれば、
当然といえば当然なのである。
イエスに選ばれた十二使徒が、パウロの思想を受け継ぐ筈がない。
そして、生まれながらのユダヤ人である使徒ヨハネが、
これほどのギリシャ語を操れる筈がないし、
ましてや漁師の子が大祭司と知り合いの筈はない。
ヨハネ福音書は、十二使徒ではないある少年、
しかもエルサレムの上層階級出身の高度な教養の持ち主が、身近でイエスに接し、
後年使徒たちの保守化に憤慨しつつ、パウロ思想の延長線に沿って、
イエスを宣べ伝えんとしたものであろう。
だから、マタイ・マルコ・ルカで重視されている使徒たち(ペテロ等)が軽視され、
当時軽視されていた使徒たち(ピリポ・アンデレ・ナタナエル)を多く登場せしめ、
使徒ではない者たちの姿(自分も含めて)を多く描写したのだと思う。
かかる観点よりヨハネ福音書を再読すれば、多くの疑問の辻褄があう。
そして、どの箇所がヨハネ福音書記者の本文で、
どの箇所が後代の教会的挿入であるかも判明してくる。
21章のガリラヤでのイエスの顕現は、明らかに後代の挿入であって、
共観福音書との整合性を狙ったものなのだろう。
この箇所だけどうして、ペテロが重視されているのか、
20章で結語を記した著者が、どうして再び21章で結語を記すのか、
まるでわからないのである。
パウロの後継者であるヨハネのメッセージの核は、
「イエスこそ神」(1-18)である。
故にその結論も、「あなたこそ、わが神」(20-28)である。
そのイエス、その神とは、
十二使徒に選ばれずとも、イエスの顕現に与らなくても知られうる方で、
(20-29「見ないのに信じた人は幸いである」)
ある特定の儀式、ある特定の教団に加盟せずとも、
(最後の晩餐において、共観福音書のように儀式的要求がないことに注目せよ)
その恩恵に与ることのできる方である。
パウロにあってイエスとは、将来来るべき栄光の型であり、
神である父に等しいものである。
しかしヨハネにあってイエスとは、将来来るべき方として「今」来たり、
父そのものである。パウロ文書を通してでなければ、
人は正当にヨハネ文書を理解できないのだと思う。
あなた方は奇跡と驚異を見なければ、決して信じない。
(ヨハネ伝4-48)
イエスを熱狂的に迎えんとする群衆に対し、
イエスが言ったとされる言葉である。
「あなた方は、奇跡を見なければ信じない!」と。
この「あなた方」が誰を指すかによって、
この聖句の意味合いは変化してくる。
ヨハネ福音書記者の意図からすれば、「あなた方」とは、
息子の癒しを願った宮廷役人やイエスに群がる群衆以上に、
十二使徒を指しているのだと思う。
その理由の第一は、ヨハネ福音書記者が、
カナの婚礼とこの記事の比較を示唆していることだ(4-46)。
カナの婚礼とこの箇所の記事は、
ちょうど長さも同じ、舞台設定も同じ、周囲の反応も同じ。
すなわち、著者はこの二つの記事を見比べるように示唆している。
そしてこの二つの記事の唯一の違いは、
カナの婚礼では十二使徒たちが奇跡を見てイエスを信じたのに対して、
宮廷役人は見ずして信じたということだけ。
イエスは明らかに、宮廷役人や群衆以上に、
他ならぬ弟子たちを責めているのである。
第二の理由として、ヨハネ福音書記者が十二使徒ではない人物だということだ。
十二使徒ではないヨハネという人物が、十二使徒の固陋な信仰を責めているのである。
私は原語聖書を読むまで、ヨハネ伝は使徒ヨハネが書いたものだと思っていたが、
ヨハネ文書とパウロ文書を読んでいくうちに、どうやら違うことがわかった。
ヨハネ文書は明らかにパウロ文書の思想を受け継いでいる。
パウロの福音理解が、徹底され爆発した姿が、ヨハネ文書の内容である。
それはまるで、ヘーゲルの精神現象学とエンチクロペディーのように、
カール・バルトのローマ書講解と教会教義学のように、
同一人物の処女作と晩年の作のようにさえ思えるのである。
パウロにとって救いとは、「もはや救われた(過去)」と「その時救われる(未来)」の間にある、
イエスの十字架と死人の復活の間にある、非常な緊張した状況を呈している。
しかしその緊張は福音書記者ヨハネにおいて徹底され、
過去と未来の狭間にある「今」、今この瞬間において、
イエスは永遠の命として我らの内奥に突入してくるのである。
(といっても、パウロにとっても聖霊による贖いの手付けは主張されているが)
このヨハネ文書が、パウロ生前の伝道拠点エペソ、
パウロ書簡成立の地であるエペソで流布していたことを考えれば、
当然といえば当然なのである。
イエスに選ばれた十二使徒が、パウロの思想を受け継ぐ筈がない。
そして、生まれながらのユダヤ人である使徒ヨハネが、
これほどのギリシャ語を操れる筈がないし、
ましてや漁師の子が大祭司と知り合いの筈はない。
ヨハネ福音書は、十二使徒ではないある少年、
しかもエルサレムの上層階級出身の高度な教養の持ち主が、身近でイエスに接し、
後年使徒たちの保守化に憤慨しつつ、パウロ思想の延長線に沿って、
イエスを宣べ伝えんとしたものであろう。
だから、マタイ・マルコ・ルカで重視されている使徒たち(ペテロ等)が軽視され、
当時軽視されていた使徒たち(ピリポ・アンデレ・ナタナエル)を多く登場せしめ、
使徒ではない者たちの姿(自分も含めて)を多く描写したのだと思う。
かかる観点よりヨハネ福音書を再読すれば、多くの疑問の辻褄があう。
そして、どの箇所がヨハネ福音書記者の本文で、
どの箇所が後代の教会的挿入であるかも判明してくる。
21章のガリラヤでのイエスの顕現は、明らかに後代の挿入であって、
共観福音書との整合性を狙ったものなのだろう。
この箇所だけどうして、ペテロが重視されているのか、
20章で結語を記した著者が、どうして再び21章で結語を記すのか、
まるでわからないのである。
パウロの後継者であるヨハネのメッセージの核は、
「イエスこそ神」(1-18)である。
故にその結論も、「あなたこそ、わが神」(20-28)である。
そのイエス、その神とは、
十二使徒に選ばれずとも、イエスの顕現に与らなくても知られうる方で、
(20-29「見ないのに信じた人は幸いである」)
ある特定の儀式、ある特定の教団に加盟せずとも、
(最後の晩餐において、共観福音書のように儀式的要求がないことに注目せよ)
その恩恵に与ることのできる方である。
パウロにあってイエスとは、将来来るべき栄光の型であり、
神である父に等しいものである。
しかしヨハネにあってイエスとは、将来来るべき方として「今」来たり、
父そのものである。パウロ文書を通してでなければ、
人は正当にヨハネ文書を理解できないのだと思う。
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