2010年が始まったのに2009年の総括もおかしいが、
ふと思ったことを書こうと思う。
2009年は私にとって、非常に思い出深い年だった。
まず外面的な事柄では、くそツマラナイ年だった。
変化なく、希望なく、方向性見えず、
ただ耐え、過ごし、鬱屈しただけの年だった。
すなわち「行き詰まり」の年だったということだ。
しかしふと、内面的な事柄を振り返る時、
生涯で最大の素晴らしい年であったと思う。
私は行き詰まりつつ、「死人の復活」を啓示された。
人は、自分の人生を決定的に方向付けた時期を明確に覚えているというが、
私にとっては、「十字架の贖罪」を啓示された2000年と、
「死人の復活」を啓示された2009年は、死ぬまで忘れない決定的な出来事だ。
私に啓示されたものは、きっと、パウロが独立伝道前に経験した
「第三の天(コリント書Ⅱ)」の実質的内容なのだと思う。
なぜ私に、かかる恵みが啓示されたのだろうか?
2009年から原語聖書を読み始めたからだろうか?
(ネストレ=アーラント27版)
それとも、多くの神学者の釈義書を読み漁ったからだろうか?
(バルト、ブルトマン、ベンゲル、田川建三、等々)
いや、そうではないと思う。
25歳(2000年)でキリストの十字架を啓示されて10年間、
私は全く無駄なことをしてきた(ピリピ書3-7)。
それはローマ書7章に記されているようなことだ。
私は、まるでアダムが敬虔そうな顔をして神を拝み、
敬虔そうな顔をしながら、神のために何事かを為さんとし、
それ故に、全く恵みから外れるという馬鹿なことを繰り返してきた(コリント書Ⅱ11-3)。
この10年間の無駄な人生、この10年間の敬虔そうな不敬が、
私に己の肉性(σαρkos)を知らしめ、神の恵みを受け入れる用意をしてきたのだと思う。
パウロがダマスコ体験から十数年後に、第三の天を啓示されたように、
聖書の真理を知るには、多くの実際的苦しみを経過せねばならないのだと思う。
内村鑑三言うところの、聖書の最大の注解書は「霊魂の実験」である。
人生の目的とは、神を知ることにある。
そういう意味で言えば、私の人生の目的は既に成った。
神の恵みは私に十分である(コリント書Ⅱ12-9)、もはや何の思い残すこともない。
家族がいて、仕事もあって、随分無責任な発言のように聞こえるかもしれぬが、
私の人生の目的は既に達せられたのだから、
もはや今後の人生は、余分な人生なのだとつくづく感じる。
神に絶大の恵みを与えられた者は、もはや神の奴隷でしかない(ピレモン書1-1)。
「死ね」と言われれば死ぬし、「生きろ」と言われれば生きるし、
「雨の中立ってろ」と言われれば不平一つ言わず立ってるし、
何か神の御用を命じられて、用が済み、
「お前はもう用済みだ」と言われれば、感謝してその場を去る。
これ、悪く言えばの生涯、良く言えば軍人の生涯である。
私に残された生涯は、もはやそういう生涯である。
そういう生涯しか残されていないと感謝して思える神の恵み、
すなわち福音は、偉大である。
さて、といっても、私の人生は続く。
あと何年続くか知らんが、取りあえず続く。
私が今為したいと切に思うのは、聖書の研究である。
軍人が指揮官の御心を知りたいように、奴隷がご主人の心を知りたいように、
私も生きることを許された時間によって、主の御心を知りたい。
2009年はヨハネ・パウロ書簡を研究してきたが、
(擬似パウロ書簡は除く)
2010年は共観福音書の研究に入りたいと思う。
古代ギリシャ語にて原典研究をするのも楽しいが、
やはりヘブライ語にて旧約の原典研究も始めねばならぬと思う。
ヘブライ人の感覚によるギリシャ語によって、
新約聖書の繊細なメッセージに分け入りたいのである。
また、聖書の写本は数多くあるから、
そろそろ正文批評のノウハウも身に付けたい。
私に今後、ヨブのような災難が続いても、私は感謝して死ぬだろう。
私が今後、何ほどかの功績を残すことができても、
私はその功績の故にではなく、功績にも関わらず、救われるだろう(コリント書Ⅰ3-15)。
(私が為すことは所詮、キリストの前では何でもない)
故に、感謝して死ぬだろう。
どちらにせよ、余分な生涯である。
主の御心のままに、生きるだろう(ピリピ書1-13~25)。
ふと思ったことを書こうと思う。
2009年は私にとって、非常に思い出深い年だった。
まず外面的な事柄では、くそツマラナイ年だった。
変化なく、希望なく、方向性見えず、
ただ耐え、過ごし、鬱屈しただけの年だった。
すなわち「行き詰まり」の年だったということだ。
しかしふと、内面的な事柄を振り返る時、
生涯で最大の素晴らしい年であったと思う。
私は行き詰まりつつ、「死人の復活」を啓示された。
人は、自分の人生を決定的に方向付けた時期を明確に覚えているというが、
私にとっては、「十字架の贖罪」を啓示された2000年と、
「死人の復活」を啓示された2009年は、死ぬまで忘れない決定的な出来事だ。
私に啓示されたものは、きっと、パウロが独立伝道前に経験した
「第三の天(コリント書Ⅱ)」の実質的内容なのだと思う。
なぜ私に、かかる恵みが啓示されたのだろうか?
2009年から原語聖書を読み始めたからだろうか?
(ネストレ=アーラント27版)
それとも、多くの神学者の釈義書を読み漁ったからだろうか?
(バルト、ブルトマン、ベンゲル、田川建三、等々)
いや、そうではないと思う。
25歳(2000年)でキリストの十字架を啓示されて10年間、
私は全く無駄なことをしてきた(ピリピ書3-7)。
それはローマ書7章に記されているようなことだ。
私は、まるでアダムが敬虔そうな顔をして神を拝み、
敬虔そうな顔をしながら、神のために何事かを為さんとし、
それ故に、全く恵みから外れるという馬鹿なことを繰り返してきた(コリント書Ⅱ11-3)。
この10年間の無駄な人生、この10年間の敬虔そうな不敬が、
私に己の肉性(σαρkos)を知らしめ、神の恵みを受け入れる用意をしてきたのだと思う。
パウロがダマスコ体験から十数年後に、第三の天を啓示されたように、
聖書の真理を知るには、多くの実際的苦しみを経過せねばならないのだと思う。
内村鑑三言うところの、聖書の最大の注解書は「霊魂の実験」である。
人生の目的とは、神を知ることにある。
そういう意味で言えば、私の人生の目的は既に成った。
神の恵みは私に十分である(コリント書Ⅱ12-9)、もはや何の思い残すこともない。
家族がいて、仕事もあって、随分無責任な発言のように聞こえるかもしれぬが、
私の人生の目的は既に達せられたのだから、
もはや今後の人生は、余分な人生なのだとつくづく感じる。
神に絶大の恵みを与えられた者は、もはや神の奴隷でしかない(ピレモン書1-1)。
「死ね」と言われれば死ぬし、「生きろ」と言われれば生きるし、
「雨の中立ってろ」と言われれば不平一つ言わず立ってるし、
何か神の御用を命じられて、用が済み、
「お前はもう用済みだ」と言われれば、感謝してその場を去る。
これ、悪く言えばの生涯、良く言えば軍人の生涯である。
私に残された生涯は、もはやそういう生涯である。
そういう生涯しか残されていないと感謝して思える神の恵み、
すなわち福音は、偉大である。
さて、といっても、私の人生は続く。
あと何年続くか知らんが、取りあえず続く。
私が今為したいと切に思うのは、聖書の研究である。
軍人が指揮官の御心を知りたいように、奴隷がご主人の心を知りたいように、
私も生きることを許された時間によって、主の御心を知りたい。
2009年はヨハネ・パウロ書簡を研究してきたが、
(擬似パウロ書簡は除く)
2010年は共観福音書の研究に入りたいと思う。
古代ギリシャ語にて原典研究をするのも楽しいが、
やはりヘブライ語にて旧約の原典研究も始めねばならぬと思う。
ヘブライ人の感覚によるギリシャ語によって、
新約聖書の繊細なメッセージに分け入りたいのである。
また、聖書の写本は数多くあるから、
そろそろ正文批評のノウハウも身に付けたい。
私に今後、ヨブのような災難が続いても、私は感謝して死ぬだろう。
私が今後、何ほどかの功績を残すことができても、
私はその功績の故にではなく、功績にも関わらず、救われるだろう(コリント書Ⅰ3-15)。
(私が為すことは所詮、キリストの前では何でもない)
故に、感謝して死ぬだろう。
どちらにせよ、余分な生涯である。
主の御心のままに、生きるだろう(ピリピ書1-13~25)。
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