年末年始を利用してパウロ書簡を再読していたところ、
ローマ書12章以下にさしあたって、何か引っかかることがあった。
というのも、パウロの使用する単語や議論が、
いつかどこかで読んだことのあるものなのである(聖書以外で)。
それが、アリストテレスの「形而上学」だった。
私は何かを学ぶ際、わからないこと、疑問に思ったことは、
頭の片隅に残しておき(引き出し状にして)、
無理に今解決せずして、これから獲得するであろう知識や経験による解決を待つ。
このアリストテレスの「形而上学」も、確か学生時代に読んで、いまいち意味がわからず、
アリストテレスの単語や思考方法を記憶していたのだ。
17年前の理解できない悔しさが、今やっと報われた訳だ。
パウロ書簡には、アリストテレスが好んだ多くの言語使用が認められる。
特にローマ書12-3~12-6では、まるでアリストテレスの著作を読むようである。
(もちろん真理をキリストとする決定的な違いがあるが)
それもその筈である。パウロはヘレニズム教育を徹底的に受けた者である。
プラトン・アリストテレスの哲学は言うに及ばず、
ソフォクレス・エウリピデスなどの詩人や弁論術などは、
徹底的に叩き込まれている筈である。
その証拠に、ガラテヤ書1・2章では自分をソクラテスに比し、
(ガラテヤ書1・2章と「ソクラテスの弁明」は言語使用及び論理の展開が酷似している)
コリント書Ⅰ1-28では、プラトン哲学の影響が認められる。
だから、アリストテレス哲学を用いて、自身のキリスト信仰を語ったとしても、
何の不思議はないのである。
通常解釈されている言語使用から離れて、アリストテレスの言語使用に応じて、
ローマ書12-3~6を訳しなおしてみよう。
わたしは与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言います。
自分を過大に評価してはなりません。
むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、
すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、
キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、
預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言しなさい。(ローマ書12-3~6/新共同訳)
「評価すべきです」と訳された単語φρoνω(フロノー)とは、
イオニア哲学者以来の重要な単語で、何かの効用のためではなく、
何かの手段としてではなく、それをそれ自身のために追及し、認識することを意味する。
(アリストテレス「形而上学」第1巻2章)
何を追求し、認識するのか?
それは、同じ文中にあって誤訳されている「キリストにある事柄」である。
ローマ書には詳細に規定されていないが、同じ表現があるピリピ書から判断すれば、
キリストが神の姿を捨てて、人にまで降った事実を意味する。
「一つの~、多くの~」と訳されているεν(ヘン)とπoλλα(ポンラ)、
「一と多」の問題は、アリストテレス哲学の要に位置する論題である。
(アリストテレス「形而上学」第4巻2章)
これ、数としての「一と多数」を意味しているのではなく、「真理と人間」を意味している。
一人のキリストと多くのキリスト者が問題になっているのではなく、
キリストなる真理とこの偽りなる人間が問題になっている。
キリストは神の真実であるが故に唯一の存在である、
しかし人間は神に徹底的に背いているが故に、非存在である。
「度合い」と訳された単語μετρos(メトロス)とは、本来「尺度」の意である。
(アリストテレス「形而上学」第10巻1章)
尺度とは、たとえば数を例にとれば、ニや三は一を尺度として測られるが、
認識される者と認識する者の場合は、一は単なる尺度ではなく、尺度の根源を意味する。
人間と人間を比べて信仰の強弱を云々しているのではなく、
キリストと人間を比べて身の丈を云々しているのではなく、
人間が主張する信仰の強弱、愛の高低、知識の大小、及び、人格の良し悪しなど、
それらすべての尺度は、キリストにより決定されるべき性質のものであることを言っている。
まだまだあるが、最後に「信仰に応じて」と訳された単語αναλoγiα(アナロギア)とは、
本来「類比」を意味する(アリストテレス「形而上学」第5巻15章)。
これ日本語が思想的に貧困だから、類比と聞けば勘違いし易いが、
ギリシャ哲学にあっての「類比」とは、様々な意味・内容が包摂されていて、
認識する者とされる者、すなわち、神と人間(ενとπλλα)の場合には、
深遠な意味内容が含まれている。
神は人間を認識する、人間が神を把握するのではない。
すなわち、人間は、誰も自分のみが神を把握していると断言することはできず、
誰も他人に対して誇れる思想的・道徳的根拠はない。
人はみな、神に認識されている者として、共通の地盤があると言いたいのである。
すなわち、この箇所は、キリストにあって多くの「キリスト者」の個性があり、
キリストにあって一つにまとまるべきだと言いたいのではなく、
(それはパウロの意図したことと真逆の解釈である)
キリストこそ真実であり、「人類」はみな、キリストを地盤して生きているという意味で、
一つであると言いたいのである。
人間から上なる神へ、キリスト者から上なるキリストへ、
教会は形成されていると言いたいのではなく、
(このような狭隘な解釈は、噴飯ものである!)
神から下なる人間へ、キリストから下なる人類へ、
この世、すなわち、国家も教会も、それに属する人間全体は、
生の地盤を有していると言いたいのである。
キリストにあって、この世のすべての存在は、
神に征服され救われるべき、餌食に過ぎないのである。
この恵みの強力さを知る者は、幸いである。
ローマ書12章以下にさしあたって、何か引っかかることがあった。
というのも、パウロの使用する単語や議論が、
いつかどこかで読んだことのあるものなのである(聖書以外で)。
それが、アリストテレスの「形而上学」だった。
私は何かを学ぶ際、わからないこと、疑問に思ったことは、
頭の片隅に残しておき(引き出し状にして)、
無理に今解決せずして、これから獲得するであろう知識や経験による解決を待つ。
このアリストテレスの「形而上学」も、確か学生時代に読んで、いまいち意味がわからず、
アリストテレスの単語や思考方法を記憶していたのだ。
17年前の理解できない悔しさが、今やっと報われた訳だ。
パウロ書簡には、アリストテレスが好んだ多くの言語使用が認められる。
特にローマ書12-3~12-6では、まるでアリストテレスの著作を読むようである。
(もちろん真理をキリストとする決定的な違いがあるが)
それもその筈である。パウロはヘレニズム教育を徹底的に受けた者である。
プラトン・アリストテレスの哲学は言うに及ばず、
ソフォクレス・エウリピデスなどの詩人や弁論術などは、
徹底的に叩き込まれている筈である。
その証拠に、ガラテヤ書1・2章では自分をソクラテスに比し、
(ガラテヤ書1・2章と「ソクラテスの弁明」は言語使用及び論理の展開が酷似している)
コリント書Ⅰ1-28では、プラトン哲学の影響が認められる。
だから、アリストテレス哲学を用いて、自身のキリスト信仰を語ったとしても、
何の不思議はないのである。
通常解釈されている言語使用から離れて、アリストテレスの言語使用に応じて、
ローマ書12-3~6を訳しなおしてみよう。
わたしは与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言います。
自分を過大に評価してはなりません。
むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、
すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、
キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、
預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言しなさい。(ローマ書12-3~6/新共同訳)
「評価すべきです」と訳された単語φρoνω(フロノー)とは、
イオニア哲学者以来の重要な単語で、何かの効用のためではなく、
何かの手段としてではなく、それをそれ自身のために追及し、認識することを意味する。
(アリストテレス「形而上学」第1巻2章)
何を追求し、認識するのか?
それは、同じ文中にあって誤訳されている「キリストにある事柄」である。
ローマ書には詳細に規定されていないが、同じ表現があるピリピ書から判断すれば、
キリストが神の姿を捨てて、人にまで降った事実を意味する。
「一つの~、多くの~」と訳されているεν(ヘン)とπoλλα(ポンラ)、
「一と多」の問題は、アリストテレス哲学の要に位置する論題である。
(アリストテレス「形而上学」第4巻2章)
これ、数としての「一と多数」を意味しているのではなく、「真理と人間」を意味している。
一人のキリストと多くのキリスト者が問題になっているのではなく、
キリストなる真理とこの偽りなる人間が問題になっている。
キリストは神の真実であるが故に唯一の存在である、
しかし人間は神に徹底的に背いているが故に、非存在である。
「度合い」と訳された単語μετρos(メトロス)とは、本来「尺度」の意である。
(アリストテレス「形而上学」第10巻1章)
尺度とは、たとえば数を例にとれば、ニや三は一を尺度として測られるが、
認識される者と認識する者の場合は、一は単なる尺度ではなく、尺度の根源を意味する。
人間と人間を比べて信仰の強弱を云々しているのではなく、
キリストと人間を比べて身の丈を云々しているのではなく、
人間が主張する信仰の強弱、愛の高低、知識の大小、及び、人格の良し悪しなど、
それらすべての尺度は、キリストにより決定されるべき性質のものであることを言っている。
まだまだあるが、最後に「信仰に応じて」と訳された単語αναλoγiα(アナロギア)とは、
本来「類比」を意味する(アリストテレス「形而上学」第5巻15章)。
これ日本語が思想的に貧困だから、類比と聞けば勘違いし易いが、
ギリシャ哲学にあっての「類比」とは、様々な意味・内容が包摂されていて、
認識する者とされる者、すなわち、神と人間(ενとπλλα)の場合には、
深遠な意味内容が含まれている。
神は人間を認識する、人間が神を把握するのではない。
すなわち、人間は、誰も自分のみが神を把握していると断言することはできず、
誰も他人に対して誇れる思想的・道徳的根拠はない。
人はみな、神に認識されている者として、共通の地盤があると言いたいのである。
すなわち、この箇所は、キリストにあって多くの「キリスト者」の個性があり、
キリストにあって一つにまとまるべきだと言いたいのではなく、
(それはパウロの意図したことと真逆の解釈である)
キリストこそ真実であり、「人類」はみな、キリストを地盤して生きているという意味で、
一つであると言いたいのである。
人間から上なる神へ、キリスト者から上なるキリストへ、
教会は形成されていると言いたいのではなく、
(このような狭隘な解釈は、噴飯ものである!)
神から下なる人間へ、キリストから下なる人類へ、
この世、すなわち、国家も教会も、それに属する人間全体は、
生の地盤を有していると言いたいのである。
キリストにあって、この世のすべての存在は、
神に征服され救われるべき、餌食に過ぎないのである。
この恵みの強力さを知る者は、幸いである。
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