人生に段階があるように,信仰にも段階がある。
まず第一段階が,イエスの十字架を仰いで,
自分の過去の罪が見逃されていることを認識することである(ローマ書3章)。
次に,イエスに過去の罪を見逃されながら,それでも罪にある自分を認識して,
将来成し遂げられる死人の復活を待ち望むことである(ローマ書8章)。
最後に,過去の罪を見逃され,将来造り変えられる神の恵みにあって,
現在,今・ここで,神の御心を実行しようと欲することである(ローマ書15章)。
第一段階が「信」である,第二段階が「望」である,最後の段階が「愛」である。
キリスト教神学において「信・望・愛」という言葉は標語にさえなっているが,
まあ,良く言ったものである。
信仰にも段階があるから,原語聖書の解釈においても違いが出る。
ピスティス クリストゥ(πιστισ χριστου)
第一段階の者は,「キリストを信じる信仰」と訳す。
すなわち,対格的属格に訳するだろう。
そして,イエス・キリストの十字架上の贖罪を頼りに,
この世の生を生きるに違いない。
第二段階の者は,「キリストの有した信仰」と訳す。
すなわち,所有格的属格に訳すだろう。
そして,この世の生の矛盾に耐えるために,イエス再臨の希望をもって生きるだろう。
第三段階の者は,「キリストという神の真実」と訳す。
そして,イエスがこの世において神なき悲惨な生を生きたように,
彼もこの世においてそのような生を望み,受け止め,生きるだろう。
私が言わんと欲することは,まるでヘーゲルや空海のように,
(ヘーゲル「精神現象学」,空海「秘密曼荼羅十住心論」)
人間の意識に段階があって,そして高みにある者は低い場所にいる者に優越感を持ち,
かかる優越感をくすぐって,自己の思想を受け止めるように施すことではない。
その逆である。
人は,イエスに近づけば近づくほど,自分がどうしようもない人間であること,
すなわち,自分こそ罪であり,暗闇であり,神に反逆する者であり,
そうであるが故に,イエスに従うよう生きねばならないと自覚するものだ,と言いたいのである。
光ある所,闇多し。
光にあればあるほど,闇が色濃く反映される。
すなわち,ダンテ風に言えば,
人はその精神が高みに達すれば達するほど,
地獄の最深部に近づいていくのである。
(ダンテの神曲では,地獄から天国へ昇っていくが,実際の精神現象を文学形式において表現するとすれば,天国から地獄へというのが,聖書的理解なのではないかと思う)
私は,パウロやヨハネや共観福音書記者の信仰理解とは,
そのようなものだったと思わざるを得ないのである。
まず第一段階が,イエスの十字架を仰いで,
自分の過去の罪が見逃されていることを認識することである(ローマ書3章)。
次に,イエスに過去の罪を見逃されながら,それでも罪にある自分を認識して,
将来成し遂げられる死人の復活を待ち望むことである(ローマ書8章)。
最後に,過去の罪を見逃され,将来造り変えられる神の恵みにあって,
現在,今・ここで,神の御心を実行しようと欲することである(ローマ書15章)。
第一段階が「信」である,第二段階が「望」である,最後の段階が「愛」である。
キリスト教神学において「信・望・愛」という言葉は標語にさえなっているが,
まあ,良く言ったものである。
信仰にも段階があるから,原語聖書の解釈においても違いが出る。
ピスティス クリストゥ(πιστισ χριστου)
第一段階の者は,「キリストを信じる信仰」と訳す。
すなわち,対格的属格に訳するだろう。
そして,イエス・キリストの十字架上の贖罪を頼りに,
この世の生を生きるに違いない。
第二段階の者は,「キリストの有した信仰」と訳す。
すなわち,所有格的属格に訳すだろう。
そして,この世の生の矛盾に耐えるために,イエス再臨の希望をもって生きるだろう。
第三段階の者は,「キリストという神の真実」と訳す。
そして,イエスがこの世において神なき悲惨な生を生きたように,
彼もこの世においてそのような生を望み,受け止め,生きるだろう。
私が言わんと欲することは,まるでヘーゲルや空海のように,
(ヘーゲル「精神現象学」,空海「秘密曼荼羅十住心論」)
人間の意識に段階があって,そして高みにある者は低い場所にいる者に優越感を持ち,
かかる優越感をくすぐって,自己の思想を受け止めるように施すことではない。
その逆である。
人は,イエスに近づけば近づくほど,自分がどうしようもない人間であること,
すなわち,自分こそ罪であり,暗闇であり,神に反逆する者であり,
そうであるが故に,イエスに従うよう生きねばならないと自覚するものだ,と言いたいのである。
光ある所,闇多し。
光にあればあるほど,闇が色濃く反映される。
すなわち,ダンテ風に言えば,
人はその精神が高みに達すれば達するほど,
地獄の最深部に近づいていくのである。
(ダンテの神曲では,地獄から天国へ昇っていくが,実際の精神現象を文学形式において表現するとすれば,天国から地獄へというのが,聖書的理解なのではないかと思う)
私は,パウロやヨハネや共観福音書記者の信仰理解とは,
そのようなものだったと思わざるを得ないのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます