キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

十字架の道

2006-10-10 04:19:16 | 聖書読解
人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、
ステパノに向かって歯ぎしりした。
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、
神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。
(使徒行伝7-54~58)



愛の極致は、祈りとなる。

彼そのものが、祈りとなる。

そして祈りは、預言となる。

神の御心を、率直に語ることになる。

そして預言は、犠牲となる。

神と人にはさまれて、その血潮を捧げることになる。


最初の殉教者が正規の使徒(ステパノ)でなかったのは、

何を意味するのだろうか?

裏切者ユダを語ることは、神の秘儀を語ることである。

殉教者ステパノを語ることは、人間の悲しい性(さが)を語ることである。

悲しいかな、聖書。

この書には、哀歌と嘆きと悲しみが書いてあるように思う。

「キリスト教」門外漢の感想である。



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