キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

私の聖所は壊された・・・

2006-10-01 04:10:28 | 人生の慰め
わたしは、あなたがたの力の誇りであり、
あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。
(エゼキエル書24-21)


私の最も恐れたものが、私を襲い、
私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもない。
心はかき乱されている。
(ヨブ記3-25・26)



人には、誰にでも悩みがある。

口に出る悩みがある、口に出ない悩みがある。

口に出る悩みは、口に出る余裕があるだけ、軽い。

しかし言葉にならぬ悩みは、その余裕がないだけ、

彼の心を深く深く蝕む。


私にも、悩みがある。

25歳で回心を経験(罪の解決)して以来、6年間、

ずっと悩み続けてきた悩みがある。

口に出せない、出したら自分の聖所を壊されるような、

自分の存在に関わる悩みだ。

「キリスト者の生とは何であるか?」

それが悩みだ。


イエス・キリストを知ることができた喜び、

彼の贖いを信ずることができた恩恵に、

今でも神に感謝する。

しかし、なぜだろう?

なぜキリスト者は、彼を信じることによって、

より不幸になるのだろうか?

18歳の時から13年間一緒にいる妻は、

こう言ったことがある。

「25歳より前は、多くの友人もいたし、器用に世の中を立ち回り、

生き生きとしていて、エネルギーに満ち溢れていた。

しかし25歳より後は、友人もいなくなり、馬鹿らしいほど不器用で、

無用な軋轢ばかり起こしている」と。

本当にそうだ。


キリストを信じて以来、私はつまらない人間になった。

今まで何をやっても面白く、友人も部下も周りにいて、

人生とは楽しみだと思っていた。

しかし今では、何をやってもつまらない。

というよりも、キリスト者とは何であるかわからない。

私は宗教にも教会にも所属していないし、したこともない。

宗教を蔑視するという意味で、私は筋金入りの無宗教人間である。

そんな私がキリストによって回心したから、

キリストは宗教ではないと信じている。

一度罪の煩悶に襲われてより、それを解決するために、

多くのものを試した。

仏典も哲学も儒学もコーランも、豪遊も仕事狂も成功哲学も、

それを解決することができなかった。

罪の苦しみに自殺さえ考えたその瞬間、

私に、キリストの贖いの死と救いが、わかったのである。

であるから私は、キリストを信じるということは、

決して宗教でも何でもないと考えている。


無宗教主義とは、そういう意味で、自然に出てきた私の信仰形態であった。

しかしそれは同時に、特定の場所や時間に集まったり祈ったりしない以上、

生活そのものが礼拝となることだった。

万人聖職主義とでもいうのかわからないが、

私の今いる職業を、神からの聖召だと信じ、

キリストの精神をもって、それを誠実に果たすことが、

私にとって礼拝であった。

しかし、なぜだろう?

キリストを信じて仕事をすればするほど、

上手くいかないのである。

むしろ、彼を信じていなかった時の方が、

何でも上手くいったし、誰とでも上手くやれた。

「苦難は信仰の証である」という言葉を信じても、

どうしても納得できないのである。


これが教会の悩みであれば、教会をやめればよい。

これが宗教団体への悩みであれば、好きな団体へ行けばよい。

これが単純な仕事の悩みであれば、仕事が終わって自己逃避すればよい。

これが夫婦の悩みであれば、外でうさを晴らせばよい。

しかし私にとって、信仰とは生活そのものであるから、

どこにも逃げ場がないのである。

学習塾の講師として、一通りの授業をすることはできる。

しかしキリストの精神をもって指導すると欲した時、

仕事をすればするほど、満たされない責任の念に苛まれるのである。

仕事から帰っても、私が夜一人ですることは、

聖書を研究したり、いろいろな宗教書や歴史書を読んで、

キリストを発見することである。

しかし読めば読むほど、わからなくなる。

「キリスト者はキリストの証人である」という聖句に従い、

ブログを公開して日々率直に記事を書いても、

書いた記事が、より鋭い牙をもって私に向かい、

私の良心を切り刻むのである・・・。

現実がつらい時、一番幸福な瞬間は、眠る時だ。

しかし今は、眠るのさえつらい。

イエスを信じている自分と、仕事をしている自分と、

そういった幾多の自分が、分裂するような感覚だ。


ある時はこう思うのである。

「俺が信じているのは、イエス・キリスト本人ではなく、

キリストという自分の幻影である。俺はより生き易くするために、

自分勝手にキリストを作り、それを拝んで、

そのことによって存在意義を確認し、

なおまた悩みを抱いているのである。

であるから、悩みの原因であるキリストを捨てろ」と。

ある時はこう思うのである。

「私が悩むのは、私にこだわるからである。

キリストに頼れ、彼の愛の中に身を投げよ。

己の矛盾も、世の中の不条理も、何もかも、

キリストに投げ入れよ」と。

イエス・キリストに、私の悩みの解決があることはわかっている。

しかし今の私には、納得ができない。

聖書を読んでも、祈っても、ルターもアウグスチヌスもカルヴァンも内村鑑三も、

誰それの聖書解釈も、周囲の慰めも、何を聞いてもわからない。


まず第一に、正義と愛の矛盾がわからない。

キリスト者はキリストを信じ、彼に愛され愛する者である。

私はキリストに愛された分、人を愛したいし、愛さねばならない。

しかし、正義はどうするか?

世の堕落や社会の不正義に対し、愛を連呼して無感覚となることはできない。

愛することと、責めること、仕事においても、何においても、

この二つが衝突するのである。

愛があればよいなどといって、

己のへその緒ばかり見るキリスト教徒にはなりたくない。

第二に、この世の悪である。

キリストのみが善ならば、彼を受け入れることが善である。

ならば、キリストを受け入れたならば、社会は善となると思う。

しかし人間というものは、曲がるものである。

キリストを受け入れては、はたまた宗教化して堕落し、

同じことを繰り返すのではないか?

ならばこの世の悪は、いかにして解決されるのか?
(頭ではキリスト再臨だと理解している)

第三に、日本の将来である。

日本の堕落は、止められないかもしれない。

しかし止められなかったとしても、日本の将来のあるべき姿とは、

一体なんぞや?

この国の明確なビジョンとは何か?

キリストの国となるために、日本に何が要請されているのか?

それがまだわからない。


これらはみな、解決する糸口は、キリスト御自身にあると想像する。

そして無宗教主義とその結論たる万人聖職主義という信仰形態、

今はまだ苦しみでわからないが、その奥にある何かにあるのだと思う。

しかしそれは、私自身に解決ができていない以上、

やはりわからない。

無宗教主義というものは、実は不可能なものなのかもしれない。

しかし聖書は、不可能なことを教えないと思う。

もう少し苦しんで、私の信仰が脱皮し、

新しき聖所が造られることを願っている。



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
沈黙 (Levi)
2006-10-01 06:09:23
 「まず第一に、正義と愛の矛盾がわからない。」



 全体的に頷くところ、鋭いところが多く、頷きながら読ませていただきました。分けても、上のうめき、これは確かにその通りだと痛感します。

 脱皮できますよ。

 ご返答は、お気遣いなく。
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奥が深いな。 (エステル)
2006-10-01 12:43:58
こんにちは。エステルです。

今日は主日ですね。

どこか教会へ行って御言葉を聞かなくては

と思いつつ。大学のレポートやら

なんやらでそれもかないそうにない。

私も昔、ひどく悩んだことがある。

全部の宗教を研究し尽くしたワケではない

ですが、神田のニコライ堂へ通い、正教の

神父さんから教えを乞うたこともあるし、

代々木上原のモスクへ行ったこともあります。もちろん、イスラムの祈りをやったこともあります。

お坊様と交流があったことも。

でも、やはりキリスト教が私に合っている。

キリスト教に私の命があるんだと思っています。どんな宗教の開祖でもイエス様のように

ご自分を犠牲にされてまで私たちに愛を

示してくださる方は他にないからです。

神は愛なり。神さまの愛に応えて

隣人を愛すべきだと解っているなら、

それを実行すればいいのです。

人を愛すると言うのは、もちろん、

自分に対して罪を犯した人を快く

許してあげることも愛。

確かに、世の中には不条理なこと、

どう判断したらいいのか解らないことも

たくさんあるけれど、それは神さまにおまかせするのです。それが信仰だと思います。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル・11:1)。私も共に、悩み、苦しみたいと

思います。良い“脱皮”ができると

私も思っています。

長くなり、すみませんでした。

皆様、教会へ行っても行かなくても。

神さまの恵み多き主日でありますように。



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ありがとうございます。 (宮内 学)
2006-10-01 19:00:34
Leviさん、エステルさん、励ましを頂き、ありがとうございます。

このブログでは、私の懐疑をいちいち記録し、自分でも確認しながら、信仰を深めていきたいと考えております。よろしくお願いします。
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