そのとき、ある律法学者が近づいて、
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」
ほかに、弟子の一人がイエスに、
「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言った。
イエスは言われた。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」
(マタイ伝8-19~22)
この箇所に、特別誤訳はない。
すなわち、意味を根本的に左右するほどの、誤訳はない。
しかし、正しく日本語に訳されてはいるが、
読む側の態度によって、正しく受け取ることもできれば、
致命的な誤解を引き起こす箇所である。
律法学者の自発的な服従の申し出に対し、
イエスは、服従することの熾烈さを述べた。
それは、「わたしの招きなき服従はない」ということである。
弟子の一人の申し出の本質は、
「まず、あれこれの事をすれば、私は従います」ということである。
このような申し出に対し、イエスは、
「服従とは自分で定めるプログラムではない」と言った。
どちらにせよ、この記事の根底に前提されているのは、
「イエスの恵みは、人をして、イエスに服従せしめる」ということである。
イエスの恵みを知った者は、イエスに服従し、
イエスに服従する者こそ、イエスの恵みを知っている。
山上の垂訓にある「イエスに服従せよ!、服従を決断せよ!」とのメッセージ。
10章にある「イエスの弟子はイエスに遣わされ、イエスの如く迫害される」という、
イエスと弟子との一体性。
このような「服従」をテーマとした箇所にはさまれていることを考えれば、
福音書記者マタイが読者に「服従への決断」を訴えていることは明らかだ。
私は福音を知りましたと言って、その恵みを安価に受け取り、
一切の服従、一切の従順は必要ないと考え、
罪を購ってくれる十字架のみを都合よく利用し、
自分の今あるこの世の立場を維持するために、
自己否定することが福音の帰結だと結論づけ、
生き方も考え方も何もかも以前と変わらずに、
観想的に恵みを楽しもうとすること。
かかる態度が、マタイの福音に対する最もたちの悪い異端である。
(パウロ・ヨハネ・マルコの福音に対しても同じである)
故に、この箇所の最も良き理解の仕方は、
文字通り、己自らがイエスに従い、勇気ある行動をすることである。
マタイ伝、特に山上の垂訓の良き注解書は、
私はあれこれの神学者の著作ではなくして、ボンヘッファーの生涯であると思う。
神学者だった彼は、当時のキリスト教会がヒトラーに随従するのを見て、言った。
「あなた方はすべての反抗が悪だとして、明確な悪にさえ立ち向かわない。
すなわち、小さな悪を犯したくないために、大きな悪を是認しているのだ」と。
そしてヒトラー暗殺に加担し、最後には処刑されることになる。
(「ワルキューレ」として映画化されている暗殺計画)
もちろん、殺人は罪である。
しかし「殺人は罪だ」と言って、
より大きな殺人を黙視するのは、より大きな罪ではないか?
キリスト者はイエスに従う者であれば、世の罪を負う必要がある。
そのために、己自ら、今・ここで、常に、イエスに従う決断をせよ!
そう、ボンヘッファーの生涯は訴えているのである。
イエスの御心が知りたくて、私は聖書を原典から研究している。
この研究は新約聖書が終われば、次にはヘブライ語の旧約聖書に行き、
正文批評にも行き、色々なことに手を染めていくだろう。
しかし最後の最後には、イエスの福音のみに縋って(何もかも捨てて)、
何とも不安な足場において、福音を宣べ伝える日が来るのかもしれない。
その時に、初めて、マタイ福音書のこの箇所が理解できるのだと思う。
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」
ほかに、弟子の一人がイエスに、
「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言った。
イエスは言われた。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」
(マタイ伝8-19~22)
この箇所に、特別誤訳はない。
すなわち、意味を根本的に左右するほどの、誤訳はない。
しかし、正しく日本語に訳されてはいるが、
読む側の態度によって、正しく受け取ることもできれば、
致命的な誤解を引き起こす箇所である。
律法学者の自発的な服従の申し出に対し、
イエスは、服従することの熾烈さを述べた。
それは、「わたしの招きなき服従はない」ということである。
弟子の一人の申し出の本質は、
「まず、あれこれの事をすれば、私は従います」ということである。
このような申し出に対し、イエスは、
「服従とは自分で定めるプログラムではない」と言った。
どちらにせよ、この記事の根底に前提されているのは、
「イエスの恵みは、人をして、イエスに服従せしめる」ということである。
イエスの恵みを知った者は、イエスに服従し、
イエスに服従する者こそ、イエスの恵みを知っている。
山上の垂訓にある「イエスに服従せよ!、服従を決断せよ!」とのメッセージ。
10章にある「イエスの弟子はイエスに遣わされ、イエスの如く迫害される」という、
イエスと弟子との一体性。
このような「服従」をテーマとした箇所にはさまれていることを考えれば、
福音書記者マタイが読者に「服従への決断」を訴えていることは明らかだ。
私は福音を知りましたと言って、その恵みを安価に受け取り、
一切の服従、一切の従順は必要ないと考え、
罪を購ってくれる十字架のみを都合よく利用し、
自分の今あるこの世の立場を維持するために、
自己否定することが福音の帰結だと結論づけ、
生き方も考え方も何もかも以前と変わらずに、
観想的に恵みを楽しもうとすること。
かかる態度が、マタイの福音に対する最もたちの悪い異端である。
(パウロ・ヨハネ・マルコの福音に対しても同じである)
故に、この箇所の最も良き理解の仕方は、
文字通り、己自らがイエスに従い、勇気ある行動をすることである。
マタイ伝、特に山上の垂訓の良き注解書は、
私はあれこれの神学者の著作ではなくして、ボンヘッファーの生涯であると思う。
神学者だった彼は、当時のキリスト教会がヒトラーに随従するのを見て、言った。
「あなた方はすべての反抗が悪だとして、明確な悪にさえ立ち向かわない。
すなわち、小さな悪を犯したくないために、大きな悪を是認しているのだ」と。
そしてヒトラー暗殺に加担し、最後には処刑されることになる。
(「ワルキューレ」として映画化されている暗殺計画)
もちろん、殺人は罪である。
しかし「殺人は罪だ」と言って、
より大きな殺人を黙視するのは、より大きな罪ではないか?
キリスト者はイエスに従う者であれば、世の罪を負う必要がある。
そのために、己自ら、今・ここで、常に、イエスに従う決断をせよ!
そう、ボンヘッファーの生涯は訴えているのである。
イエスの御心が知りたくて、私は聖書を原典から研究している。
この研究は新約聖書が終われば、次にはヘブライ語の旧約聖書に行き、
正文批評にも行き、色々なことに手を染めていくだろう。
しかし最後の最後には、イエスの福音のみに縋って(何もかも捨てて)、
何とも不安な足場において、福音を宣べ伝える日が来るのかもしれない。
その時に、初めて、マタイ福音書のこの箇所が理解できるのだと思う。
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