あなたは自分が抱いている確信を,神の御前で心の内に持っていなさい。
(ローマ書14-22/新共同訳)
確信と訳されているπιστισ(ピスティス)とは,信仰とも真実とも訳せる。
イエスに信仰者の模範をみるルカ文書においては,信仰と訳すべきだが,
パウロ書簡においては,(神の)真実と訳すべきだろう。
(ローマ1-17とハバクク2-5の対照によって)
また,「自分が抱いている」と訳されている部分の中には,
κατα(カタ)という語があって,「~に基づいて,~に従って」とも
「~に抗して,~に反対して」とも訳せる。
日本語訳聖書は前者の意味にとって訳したのであろうが,
自分の信念や主義を曲げてまで他者を受け入れよ,とのパウロの考え方から判断すれば,
(ガラテヤ書2章,コリント書Ⅰ8・9章)
「~に抗して」と訳すべきだと思う。
すなわち,訳し直せば,下記のようになる。
あなたは自分に抗して神の真実に与っている。神の御前でそれを持ち続けよ。
(ローマ書14-22/私訳)
この箇所で述べられていることは,確信や信念を持て,ということではない。
この箇所で帰結されていることは,自分自身の思いに反対して,
イエス・キリストにある神の真実を思え,ということである。
他人に面白くないことを言われたり,為されたりする。
その時,この罪深き私は,他人が私に為した数倍の仕打ちをしたくなる。
だが,イエス・キリストの生涯に照らして,私は自分の欲することを為すべきではない。
悪には善を,嘲笑には祝福を,私は私に反して返さねばならない。
社会の状況は,日々神なき正義なき現実を露呈しつつある。
その時,私は,何もかも嫌になって,失望に失望を重ね,最後には自暴自棄になりそうになる。
だが,イエス・キリストの約束に照らして,私は決して絶望すべきではない。
神なき世界に神の希望を,残酷な世の現状に神の恵みを,
私は私に反して待ち望むべきである。
(いや,待ち望むことを許されていると言うべきだろう)
(ローマ書14-22/新共同訳)
確信と訳されているπιστισ(ピスティス)とは,信仰とも真実とも訳せる。
イエスに信仰者の模範をみるルカ文書においては,信仰と訳すべきだが,
パウロ書簡においては,(神の)真実と訳すべきだろう。
(ローマ1-17とハバクク2-5の対照によって)
また,「自分が抱いている」と訳されている部分の中には,
κατα(カタ)という語があって,「~に基づいて,~に従って」とも
「~に抗して,~に反対して」とも訳せる。
日本語訳聖書は前者の意味にとって訳したのであろうが,
自分の信念や主義を曲げてまで他者を受け入れよ,とのパウロの考え方から判断すれば,
(ガラテヤ書2章,コリント書Ⅰ8・9章)
「~に抗して」と訳すべきだと思う。
すなわち,訳し直せば,下記のようになる。
あなたは自分に抗して神の真実に与っている。神の御前でそれを持ち続けよ。
(ローマ書14-22/私訳)
この箇所で述べられていることは,確信や信念を持て,ということではない。
この箇所で帰結されていることは,自分自身の思いに反対して,
イエス・キリストにある神の真実を思え,ということである。
他人に面白くないことを言われたり,為されたりする。
その時,この罪深き私は,他人が私に為した数倍の仕打ちをしたくなる。
だが,イエス・キリストの生涯に照らして,私は自分の欲することを為すべきではない。
悪には善を,嘲笑には祝福を,私は私に反して返さねばならない。
社会の状況は,日々神なき正義なき現実を露呈しつつある。
その時,私は,何もかも嫌になって,失望に失望を重ね,最後には自暴自棄になりそうになる。
だが,イエス・キリストの約束に照らして,私は決して絶望すべきではない。
神なき世界に神の希望を,残酷な世の現状に神の恵みを,
私は私に反して待ち望むべきである。
(いや,待ち望むことを許されていると言うべきだろう)
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