キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

聖書にある個性

2010-09-12 19:16:13 | 聖書原典研究(共観福音書)
聖書には3つの福音書があって、イエスの生涯を伝えている。
(ヨハネ伝は少し別格の福音書だから除外する)

マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝である。

これらは通常、共観福音書と呼ばれている。

みな、イエスの生涯を伝えたものである。

だが、書いた当事者が違うから、同じような記事であっても、

その解釈は随分と違う。


我々が聖書を読む際、留意せねばならないことは、

彼らの福音書を読んで、イエスという人間の歴史的記録を抜き出すということは、

まったくもって馬鹿げたことだということだ。

マルコもマタイも、イエスという人間の生涯を、時系列的に書こうとする意図はない。
(ルカ伝については、まだ原文を読んでいないから、何とも言えない)

福音というものを、イエスの生涯を素材として用い、主張しているだけだ。

だから我々は、3つの福音書によってイエスの歴史的生涯を知るのではなく、

マルコやマタイやルカの目に映るイエスを通して、福音というものの本質を探るのである。

すなわち、マルコはマルコ、マタイはマタイ、ルカはルカの線に沿ってイエスを探り、

それらのイエス像を通して、イエス・キリストという人の生涯を知るのである。

故に、もし、マルコ伝とマタイ伝とルカ伝の共通点を見い出そうとし、

それらの共通点をもって真理だとするのならば、結局何でもないものが生まれるに過ぎない。

その良き例が、「中風の人の癒し」の記事である。


中風の人をイエスが癒した時、イエスはこう言った。

「あなたの罪は赦されている」と。

その時、パリサイ人はイエスをもって神を汚す者としたが、

イエスは彼らに言うのである。

「人の子が地上で罪を赦す力(εζουσια)をもっていることを知らせよう」と。
(マルコ2-10、マタイ9-6)

人の子(ο υιοσ του ανθρωπου)とは、2つの意味がある。

単なる「人間」という意味か、ダニエル書の意味に沿って「メシア」という意味か。


マルコ伝においては、イエスの救いの力を強調している箇所であれば、

「イエスのみが、罪を赦す力がある」と解釈すべきである。

だがマタイ伝においては、イエスに罪を赦された人間の生き方を問題にしているのであれば、

「人間は、他人の罪を赦すことができる」と解釈すべきである。
(直後のマタイ9-8において、贖罪の力の授与が人間たちであることを読め!)

マルコ伝もマタイ伝も、イエスのみが人類の罪を赦すことができ、

そういうイエスに従うキリスト者であればこそ、他人を赦すことができる、

という主張は変わらない。

しかし、マルコはこの奇跡を「イエスの贖罪の力」として記述し、

マタイはこの奇跡を「イエスにある者の憐れみの力」として記述する。


マタイにはマタイの個性や、メッセージがある。

マルコにはマルコの個性や、メッセージがある。

パウロも、ルカも、パウロの後継者の書簡も然りである。

それを個々別々に研究した末に、イエスの真実の姿を見るべきである。

間違っても、聖書は必ず一致する筈だとの前提のもとに、

彼らの個性やメッセージの強調点を曖昧にすべきではない。


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