聖書には3つの福音書があって、イエスの生涯を伝えている。
(ヨハネ伝は少し別格の福音書だから除外する)
マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝である。
これらは通常、共観福音書と呼ばれている。
みな、イエスの生涯を伝えたものである。
だが、書いた当事者が違うから、同じような記事であっても、
その解釈は随分と違う。
我々が聖書を読む際、留意せねばならないことは、
彼らの福音書を読んで、イエスという人間の歴史的記録を抜き出すということは、
まったくもって馬鹿げたことだということだ。
マルコもマタイも、イエスという人間の生涯を、時系列的に書こうとする意図はない。
(ルカ伝については、まだ原文を読んでいないから、何とも言えない)
福音というものを、イエスの生涯を素材として用い、主張しているだけだ。
だから我々は、3つの福音書によってイエスの歴史的生涯を知るのではなく、
マルコやマタイやルカの目に映るイエスを通して、福音というものの本質を探るのである。
すなわち、マルコはマルコ、マタイはマタイ、ルカはルカの線に沿ってイエスを探り、
それらのイエス像を通して、イエス・キリストという人の生涯を知るのである。
故に、もし、マルコ伝とマタイ伝とルカ伝の共通点を見い出そうとし、
それらの共通点をもって真理だとするのならば、結局何でもないものが生まれるに過ぎない。
その良き例が、「中風の人の癒し」の記事である。
中風の人をイエスが癒した時、イエスはこう言った。
「あなたの罪は赦されている」と。
その時、パリサイ人はイエスをもって神を汚す者としたが、
イエスは彼らに言うのである。
「人の子が地上で罪を赦す力(εζουσια)をもっていることを知らせよう」と。
(マルコ2-10、マタイ9-6)
人の子(ο υιοσ του ανθρωπου)とは、2つの意味がある。
単なる「人間」という意味か、ダニエル書の意味に沿って「メシア」という意味か。
マルコ伝においては、イエスの救いの力を強調している箇所であれば、
「イエスのみが、罪を赦す力がある」と解釈すべきである。
だがマタイ伝においては、イエスに罪を赦された人間の生き方を問題にしているのであれば、
「人間は、他人の罪を赦すことができる」と解釈すべきである。
(直後のマタイ9-8において、贖罪の力の授与が人間たちであることを読め!)
マルコ伝もマタイ伝も、イエスのみが人類の罪を赦すことができ、
そういうイエスに従うキリスト者であればこそ、他人を赦すことができる、
という主張は変わらない。
しかし、マルコはこの奇跡を「イエスの贖罪の力」として記述し、
マタイはこの奇跡を「イエスにある者の憐れみの力」として記述する。
マタイにはマタイの個性や、メッセージがある。
マルコにはマルコの個性や、メッセージがある。
パウロも、ルカも、パウロの後継者の書簡も然りである。
それを個々別々に研究した末に、イエスの真実の姿を見るべきである。
間違っても、聖書は必ず一致する筈だとの前提のもとに、
彼らの個性やメッセージの強調点を曖昧にすべきではない。
(ヨハネ伝は少し別格の福音書だから除外する)
マルコ伝、マタイ伝、ルカ伝である。
これらは通常、共観福音書と呼ばれている。
みな、イエスの生涯を伝えたものである。
だが、書いた当事者が違うから、同じような記事であっても、
その解釈は随分と違う。
我々が聖書を読む際、留意せねばならないことは、
彼らの福音書を読んで、イエスという人間の歴史的記録を抜き出すということは、
まったくもって馬鹿げたことだということだ。
マルコもマタイも、イエスという人間の生涯を、時系列的に書こうとする意図はない。
(ルカ伝については、まだ原文を読んでいないから、何とも言えない)
福音というものを、イエスの生涯を素材として用い、主張しているだけだ。
だから我々は、3つの福音書によってイエスの歴史的生涯を知るのではなく、
マルコやマタイやルカの目に映るイエスを通して、福音というものの本質を探るのである。
すなわち、マルコはマルコ、マタイはマタイ、ルカはルカの線に沿ってイエスを探り、
それらのイエス像を通して、イエス・キリストという人の生涯を知るのである。
故に、もし、マルコ伝とマタイ伝とルカ伝の共通点を見い出そうとし、
それらの共通点をもって真理だとするのならば、結局何でもないものが生まれるに過ぎない。
その良き例が、「中風の人の癒し」の記事である。
中風の人をイエスが癒した時、イエスはこう言った。
「あなたの罪は赦されている」と。
その時、パリサイ人はイエスをもって神を汚す者としたが、
イエスは彼らに言うのである。
「人の子が地上で罪を赦す力(εζουσια)をもっていることを知らせよう」と。
(マルコ2-10、マタイ9-6)
人の子(ο υιοσ του ανθρωπου)とは、2つの意味がある。
単なる「人間」という意味か、ダニエル書の意味に沿って「メシア」という意味か。
マルコ伝においては、イエスの救いの力を強調している箇所であれば、
「イエスのみが、罪を赦す力がある」と解釈すべきである。
だがマタイ伝においては、イエスに罪を赦された人間の生き方を問題にしているのであれば、
「人間は、他人の罪を赦すことができる」と解釈すべきである。
(直後のマタイ9-8において、贖罪の力の授与が人間たちであることを読め!)
マルコ伝もマタイ伝も、イエスのみが人類の罪を赦すことができ、
そういうイエスに従うキリスト者であればこそ、他人を赦すことができる、
という主張は変わらない。
しかし、マルコはこの奇跡を「イエスの贖罪の力」として記述し、
マタイはこの奇跡を「イエスにある者の憐れみの力」として記述する。
マタイにはマタイの個性や、メッセージがある。
マルコにはマルコの個性や、メッセージがある。
パウロも、ルカも、パウロの後継者の書簡も然りである。
それを個々別々に研究した末に、イエスの真実の姿を見るべきである。
間違っても、聖書は必ず一致する筈だとの前提のもとに、
彼らの個性やメッセージの強調点を曖昧にすべきではない。
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