キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ステファノの殉教

2011-07-03 17:00:46 | 聖書原典研究(共観福音書)
人々はこれを聞いて激しく怒り,ステファノに向かって歯ぎしりした。
ステファノは聖霊に満たされ,天を見つめ,
神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て,
「天が開いて,人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ,
ステファノ目がけて一斉に襲いかかり,都の外に引きずり出して石打ちにした。
(使徒行伝7-54~58)



使徒行伝を8章まで読了する。

そこで気づいたことを一つ。


上記の文言は,キリスト教最初の殉教者ステファノが死ぬ際の記事である。

この箇所で注意せねばならぬ所は,ステファノが言ったとされている言葉,

「天が開いて,人の子が神の右に立っておられるのが見える」である。


聖書に限らず,すべての書物に通ずることだが,

ある書物を読み,著者の思想・主張を理解する際,

その著者が前提としている思想・主張を理解せねばならない。

たとえば,ヘーゲルを理解するにはカントを理解せねばならない。

なぜなら,ヘーゲルはカント哲学を土台として議論を展開しているからである。

同じように,西洋哲学を理解するには,プラトン哲学を理解せねばならない。

ある哲学史家が「西洋哲学の歴史は,プラトン哲学の注解である」と言ったように,

西洋哲学はプラトンの思想を前提とし,発展させ,議論を展開してきたからである。

同様のことが,聖書の文書にも言える。


福音書記者ルカは,マルコ福音書を土台として,自身の福音を語っている。

マルコ福音書の記事とルカ自身が入手していたであろう記録を用いて,

記事を分割し,くっつけ,体系化し,

ルカの信じるイエス・キリスト及び使徒の生涯を描いているのである。

だから,ルカ伝及び使徒行伝を読む際は,常にマルコ伝の該当する記事を参照しつつ,

ルカがほどこした改変の意図を推察し,記事の強調点を見極める必要がある。


「人の子が神の右にいる」という表現は,
(τον υιον του ανθρωπου εκ δεξιων)

マルコ伝においてはイエスが述べている言葉である(マルコ14-62)。

だが,少し違う。

イエスは「人の子が神の右に座している(καθημενον)」と言ったが,

ステファノは「人の子が神の右に立っている(εστωτα)」と言っている。

ルカはこのような改変を行うことによって,ステファノの殉教をより劇的に描いている。


想像してもらいたい。

まるで旧約の預言者の如く,群衆に神の真理を鋭く突きつけるステファノがいる。

そのステファノの言葉に対して,群衆は激怒し,耳をふさぎ,

大声で叫びながら,恐ろしい形相をして殺到する。

当時のユダヤ人の最高法廷は死刑執行の権がなかったから,

このような死刑執行は完全なリンチの類である。

ステファノを殴り殺すために殺到する群衆,それを静かに見つめるステファノ,

その頭上にはメシア・イエスが(座すのではなく)立ち上がって,

まさしく今すぐにでもその御業を成就しようとする姿。

これほど劇的な光景はあるまい。


このステファノの殉教記事において注目すべきなのは,

その劇的な情景描写とともに,ステファノとイエスの類似性である。

両者とも「わたしの霊を受けよ」と言って死ぬ(ルカ23-46,使徒7-59)。

両者とも,自分を殺す者の赦しを祈って死ぬ(ルカ23-34,使徒7-60)。

まさしくルカは,ステファノにイエスの姿を見ているのである。

そしてルカは,ステファノを殺した側に,あの大使徒パウロを置き,

「イエス第一の僕パウロは,もともとイエスに反逆する側にいた」

という事実をわざわざ明記する。
(8-1 サウロは,ステファノの殺害に賛成していた)


ルカが言いたいことはこうではないか。

イエスを十字架につけ,殺した側の人間の中から,

神はイエス第一の僕を起こされた。

-逆転と認知-

イエスに反逆する罪人の救いは,

まさしくその罪人が自分の殺した神の子に出会うことによって,

奇跡的なかたちで成し遂げられる,と。


神学者カール・バルトはその「教会教義学」の予定論において,

イエスを裏切ったユダとイエスを宣べ伝えたパウロこそ,

我々は対照して考察せねばならない,と言った。

だが私には,ルカ伝の編集方針及びマルコ伝の扱い方からして,

ステファノ(イエス)とパウロこそ,比較対照せねばならないのではないか,と思う。



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