キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

マタイ伝における「黄金律」の真意

2011-11-06 17:08:51 | 聖書原典研究(共観福音書)
人にしてもらいたいと思うことは何でも,
あなた方も人にしなさい。(マタイ伝7-12/新共同訳)



この箇所(黄金律)でマタイが言わんと欲していることは,何なのだろうか?

自分が他人にしてもらいたい,自分が他人に期待するようなことを,

自分が率先して為せ,というような教えなのだろうか?

私は,福音書記者マタイの本心からすれば,

このような解釈は大きな間違いであると思う。


原文を直訳すると,以下のようになる。

「あなた方がもし人々がするであろうことを欲するなら,それをせよ」

何だか,わかったようで,わからない記事である。

ただ一つ明瞭にわかるのは,ここで語られていることは,

「自他の逆転」が主張されているということだ。

そして,山上の垂訓の頂点・結論に位置するような書き方をされていることだ。


ある強烈な思想,ある体系的な思想を考察する際,

最もやってはいけないことは,著者の文言を抜き出して,

その文言を著作全体から浮き出た形で解釈することである。

であるから,黄金律に如何なる意味が付与されているかを考察するには,

マタイ伝全体の構想を考慮しつつ吟味する必要がある。


マタイはその福音書において,王としてのイエス,

ダビデ契約の成就者としてのイエスを伝えようとしている。

そして1-1~4-11(最初)をダビデの子の紹介・即位として,

26-1~28-20(最後)をダビデの子の最期・勝利として描き,

その中間に存する4-12~25-46を,成就されたダビデ契約の解説にあてている。

世間一般に「山上の垂訓」と言われる4-12~7-29はダビデ契約の宣言として,

8-1~25-46は高らかに宣言したダビデ契約のイエス自身による解説・注解として,

この福音書は執筆されているのである。
(このような解釈に対する根拠を書こうとすると,一冊の本になるぐらい長くなるので,
失礼ながら省かせて頂く)

だから,山上の垂訓の結論である黄金律を解釈するなら,

よろしくマタイ自身における注解,すなわち,

イエスの十字架の死の場面を味読せねばならない。


イエスの十字架の死において,マタイがわざわざ挿入している旧約聖書の引用は,

ゼカリヤ書の以下の記事である。


彼らは銀貨三十枚を取った。
それは,値踏みされた者,すなわち,イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
(ゼカリヤ書11-13)


これ,不思議な引用である。

ゼカリヤ書において言われていることは,

羊飼いが羊の面倒をみた代価・謝礼として,銀貨三十枚を受け取るという意である。

しかし実際のイエスの生涯は,

王としてのイエスが民の面倒をみた代価としてイエスが受け取ったのではなく,

民の面倒をみたイエス自身が売られた代価として,銀貨三十枚が支払われたのである。

完全な「自他の逆転」である。

神なき世において神と共に苦しんだイエスは,その報酬として栄光を受けたのではなく,

その報酬として苦難を,十字架を,死を受けたのである。

そういうことが,語られているのである。


マタイが黄金律で言いたいことは,こうである。

イエスはこの無神的な世において,神のために生き,

皮肉なほど不釣合いな報いを受けた。

だから,キリスト者よ!

あなた方も,当然要求すべきことを要求せず,背負う必要のない事柄を背負いつつ,

神(イエス)と共に苦しみ,嘆き,イエスの後に従え!

これが,律法であり預言者の本質である(マタイ伝7-13),と。


聖書文書中,最も「イエスへの服従」を押し出すマタイであれば,

福音書の結論として頷けるメッセージである。


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