キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

信仰=服従

2010-09-05 16:10:23 | 聖書原典研究(共観福音書)
そのとき、ある律法学者が近づいて、
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」
ほかに、弟子の一人がイエスに、
「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言った。
イエスは言われた。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」
(マタイ伝8-19~22)



この箇所に、特別誤訳はない。

すなわち、意味を根本的に左右するほどの、誤訳はない。

しかし、正しく日本語に訳されてはいるが、

読む側の態度によって、正しく受け取ることもできれば、

致命的な誤解を引き起こす箇所である。


律法学者の自発的な服従の申し出に対し、

イエスは、服従することの熾烈さを述べた。

それは、「わたしの招きなき服従はない」ということである。

弟子の一人の申し出の本質は、

「まず、あれこれの事をすれば、私は従います」ということである。

このような申し出に対し、イエスは、

「服従とは自分で定めるプログラムではない」と言った。

どちらにせよ、この記事の根底に前提されているのは、

「イエスの恵みは、人をして、イエスに服従せしめる」ということである。

イエスの恵みを知った者は、イエスに服従し、

イエスに服従する者こそ、イエスの恵みを知っている。


山上の垂訓にある「イエスに服従せよ!、服従を決断せよ!」とのメッセージ。

10章にある「イエスの弟子はイエスに遣わされ、イエスの如く迫害される」という、

イエスと弟子との一体性。

このような「服従」をテーマとした箇所にはさまれていることを考えれば、

福音書記者マタイが読者に「服従への決断」を訴えていることは明らかだ。


私は福音を知りましたと言って、その恵みを安価に受け取り、

一切の服従、一切の従順は必要ないと考え、

罪を購ってくれる十字架のみを都合よく利用し、

自分の今あるこの世の立場を維持するために、

自己否定することが福音の帰結だと結論づけ、

生き方も考え方も何もかも以前と変わらずに、

観想的に恵みを楽しもうとすること。

かかる態度が、マタイの福音に対する最もたちの悪い異端である。
(パウロ・ヨハネ・マルコの福音に対しても同じである)

故に、この箇所の最も良き理解の仕方は、

文字通り、己自らがイエスに従い、勇気ある行動をすることである。


マタイ伝、特に山上の垂訓の良き注解書は、

私はあれこれの神学者の著作ではなくして、ボンヘッファーの生涯であると思う。

神学者だった彼は、当時のキリスト教会がヒトラーに随従するのを見て、言った。

「あなた方はすべての反抗が悪だとして、明確な悪にさえ立ち向かわない。

すなわち、小さな悪を犯したくないために、大きな悪を是認しているのだ」と。

そしてヒトラー暗殺に加担し、最後には処刑されることになる。
(「ワルキューレ」として映画化されている暗殺計画)

もちろん、殺人は罪である。

しかし「殺人は罪だ」と言って、

より大きな殺人を黙視するのは、より大きな罪ではないか?

キリスト者はイエスに従う者であれば、世の罪を負う必要がある。

そのために、己自ら、今・ここで、常に、イエスに従う決断をせよ!

そう、ボンヘッファーの生涯は訴えているのである。


イエスの御心が知りたくて、私は聖書を原典から研究している。

この研究は新約聖書が終われば、次にはヘブライ語の旧約聖書に行き、

正文批評にも行き、色々なことに手を染めていくだろう。

しかし最後の最後には、イエスの福音のみに縋って(何もかも捨てて)、

何とも不安な足場において、福音を宣べ伝える日が来るのかもしれない。

その時に、初めて、マタイ福音書のこの箇所が理解できるのだと思う。


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