キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

イエスと共にどこへ行く?

2012-07-08 16:45:59 | 聖書原典研究(共観福音書)
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。(マルコ伝1-16)

イエスは彼らと一緒に、平らな所にお立ちになった。(ルカ伝6-17)

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。(マタイ伝5-1)



マルコ伝のイエスは好んで湖のほとりに立ち、ルカ伝のイエスは平野に立ち、

マタイ伝のイエスは山に立つ。


エルサレム原始教団の権威主義に反対するマルコにとって、

麗しき田舎のガリラヤ、及び、ガリラヤ湖は、神聖な場所である。

多分マルコは、ガリラヤ湖に生前のイエスを見、

その生前のイエスからイエスが約束した神の国を見ていたのだろう。

自身ギリシャ人であり、ギリシャ悲劇を範にして福音書を書いたルカにとって、

イエスが立つべき場所は平野だった。

古代ギリシャ人が説教し討論する場所は広場(アゴラ)だったからだ。

イエスへの服従を新しき契約の成就と考えるマタイにとって、

イエスが立つべき場所は、モーゼが山にて律法を宣言したように、山だった。


このように、福音書によって、イエスが立っている場所が違うのである。

史実のイエスが実際、どの場所に立ち給うたかは、あまり重要な問題ではない。
(成立年代からすればマルコが史実に忠実な可能性が高いが)

なぜなら、立つべき場所を設定したのは、福音書記者であり、

福音書記者にはそれぞれの主張があって、その主張に沿って状況を設定したからだ。

それよりも重要なのは、イエスがそこで何を主張したかである。

イエスがそこで語ったことは、

イエスに従って弱い者の側に立つことであり(マルコ)、

悔い改めつつ福音を宣べ伝えることであり(ルカ)、

神なきこの世において神と共に生きることである(マタイ)。

福音書記者それぞれの書き方・個性は違えども、

この、イエスの圧倒的恩恵の受領とイエスの服従という主張は同一である。


大事なことは、場所ではなく、信仰である。

我らが湖に行こうが山に登ろうが平地に立とうが、

我らが都会にあろうが田舎にあろうが、

我らが教会の中にいようが教会外に出ようが、

我らがいわゆる正統にあろうが異端にあろうが、

我らが成功にあろうが不遇にあろうが、

我らが天国にあろうが地獄にあろうが、

大事なことは、イエスと共にあることなのである。



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