恐れおののいて自分の救いを達成してください。
神は、御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、
事を行なわせて下さるのです。
(ピリピ書2-12・13/新改訳)
「達成する」と訳されているκατεργαζεσθεとは、
単に「働く」という意味である。文字通り、自分が何事かを為すという意味である。
問題なのは、誰に対して為すか、ということである。
カトリックはこの箇所を、「他人に対して働く」と解釈する。
そして、救われるために人間の業が必要であると説く。
プロテスタントはこの箇所を、「神に対して働く」と解釈する。
そして、救われるために人間の業は必要ないと説く。
果たして、どのように解釈すればよいのか?
パウロがピリピ書で言っているのは、
キリストが身を低くしてあなた方を救ったのであれば(ピリピ書2-8)、
あなた方も身を低くして他人のために生きよ(ピリピ書2-3・4)、ということである。
すなわちこの箇所は、キリストに救われるあなた方であるからこそ、
他人にこそ目をとめ(σκοπω)、
他人を愛するようにさせもすればさせなくもする神の全能の前に、
他人に対して恐れおののきつつ(φοβου και τρομου)、
働きかけよ、と言っている。
「他人(ετερων)」ということに注目している箇所であるから、
カトリックの主張のように、「他人に働く」とすべきである。
ただしそれは、救われるであろう人々に語られているから、
救いのための条件としてではなく、救いの報恩として解釈されるべきだ。
訳しなおせば、下記のようになろう。
恐れおののいて他人に働きつつ、己の救いを完うせよ。
なぜなら、あなた方を御心のままに意欲させ遂行させるのは神だからだ。
(ピリピ書2-12・13/私訳)
私がこの箇所を読んで連想するのは、プラトンの著書「パイドン」である。
当時の教養人パウロも読んだことがあるであろうこの書において、
プラトンは言っている。
人間は神の愛(εροσ:エロス)をみつめると、
おののきと恐れ(τρομου και φοβου)が彼をおそい、
その姿を見つめているうちに(σκοπω)、魂に翼が生えて、
真理の世界を飛翔することができる、と(「パイドン」251A・B)。
使われている語があまりにも似ていて、パウロとプラトンの思想系列からすれば、
「真理を知るということは如何なる事態か?」という同一の主題であることを考えれば、
パウロはプラトンのこの書を念頭に置いてピリピ書を記しているのではないか!?
だが、仮にパウロが500年前の大哲学者に感化されていたとしても、
その主張の実質は天と地ほども違う。
プラトンのいう真理とは、心の中にある抽象的存在であり、
その抽象的存在を観照していれば、至福の境地を得られると言いたい。
しかしパウロのいう真理とは、この世に生まれ、十字架に上った方であれば、
この方を見つめるということは、すぐさま、人間を具体的生に駆り立てる。
故にパウロは、プラトンの論述である「おののきと恐れ」を
「恐れとおののき」にひっくり返して「恐れ(φοβου)」を強調し、
旧約聖書以来、人間が神を見るということが「恐れ」であることを念頭に置きながら、
(福音書記者マルコがこの「恐れ」という語を、70人訳旧約聖書の語法に則って重用している)
この書簡を書いたのだと思う。
過去の罪を見逃されたし、将来必ず救われることがわかっているからこそ、
この世の生において、目の前の人間のために生きよ!
これがパウロの福音の結論である。
神は、御心のままに、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、
事を行なわせて下さるのです。
(ピリピ書2-12・13/新改訳)
「達成する」と訳されているκατεργαζεσθεとは、
単に「働く」という意味である。文字通り、自分が何事かを為すという意味である。
問題なのは、誰に対して為すか、ということである。
カトリックはこの箇所を、「他人に対して働く」と解釈する。
そして、救われるために人間の業が必要であると説く。
プロテスタントはこの箇所を、「神に対して働く」と解釈する。
そして、救われるために人間の業は必要ないと説く。
果たして、どのように解釈すればよいのか?
パウロがピリピ書で言っているのは、
キリストが身を低くしてあなた方を救ったのであれば(ピリピ書2-8)、
あなた方も身を低くして他人のために生きよ(ピリピ書2-3・4)、ということである。
すなわちこの箇所は、キリストに救われるあなた方であるからこそ、
他人にこそ目をとめ(σκοπω)、
他人を愛するようにさせもすればさせなくもする神の全能の前に、
他人に対して恐れおののきつつ(φοβου και τρομου)、
働きかけよ、と言っている。
「他人(ετερων)」ということに注目している箇所であるから、
カトリックの主張のように、「他人に働く」とすべきである。
ただしそれは、救われるであろう人々に語られているから、
救いのための条件としてではなく、救いの報恩として解釈されるべきだ。
訳しなおせば、下記のようになろう。
恐れおののいて他人に働きつつ、己の救いを完うせよ。
なぜなら、あなた方を御心のままに意欲させ遂行させるのは神だからだ。
(ピリピ書2-12・13/私訳)
私がこの箇所を読んで連想するのは、プラトンの著書「パイドン」である。
当時の教養人パウロも読んだことがあるであろうこの書において、
プラトンは言っている。
人間は神の愛(εροσ:エロス)をみつめると、
おののきと恐れ(τρομου και φοβου)が彼をおそい、
その姿を見つめているうちに(σκοπω)、魂に翼が生えて、
真理の世界を飛翔することができる、と(「パイドン」251A・B)。
使われている語があまりにも似ていて、パウロとプラトンの思想系列からすれば、
「真理を知るということは如何なる事態か?」という同一の主題であることを考えれば、
パウロはプラトンのこの書を念頭に置いてピリピ書を記しているのではないか!?
だが、仮にパウロが500年前の大哲学者に感化されていたとしても、
その主張の実質は天と地ほども違う。
プラトンのいう真理とは、心の中にある抽象的存在であり、
その抽象的存在を観照していれば、至福の境地を得られると言いたい。
しかしパウロのいう真理とは、この世に生まれ、十字架に上った方であれば、
この方を見つめるということは、すぐさま、人間を具体的生に駆り立てる。
故にパウロは、プラトンの論述である「おののきと恐れ」を
「恐れとおののき」にひっくり返して「恐れ(φοβου)」を強調し、
旧約聖書以来、人間が神を見るということが「恐れ」であることを念頭に置きながら、
(福音書記者マルコがこの「恐れ」という語を、70人訳旧約聖書の語法に則って重用している)
この書簡を書いたのだと思う。
過去の罪を見逃されたし、将来必ず救われることがわかっているからこそ、
この世の生において、目の前の人間のために生きよ!
これがパウロの福音の結論である。
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