やっと夏期講習も終わり、通常の授業日程になった。
やはり夏の間は、聖書研究が遅々として進まない。
授業を5つもこなすと、夜中は意識が朦朧として、
全然集中できないのだ。
だから去年と同じように夏の間は、原典読解を一時中断し、
今まで研究してきた事柄を黙想し考察していた。
(本当に眠ってしまうことがほとんどだが・・・)
原典読解という意味では、いっけん無駄に思えるような黙想だが、
しかしこういうことも必要である。
一個一個の文を追わずして、パウロ本人、マタイ本人の根本思想を考察すること。
一本一本の木を調べずして森はわからないが、
全体としての森を俯瞰せずして、一本一本の木もわからないのであるから。
パウロの福音のキーワードは、「義(δικαιοσυνη)」である(ローマ書1-17)。
キリスト教神学においては義認論と呼ばれて、
「人間はただ信じるだけで義とされる」という意味に解されているが、
パウロ自身の「義」の概念はもっともっと広い。
パウロにとって義とは、
人間がイエス・キリストの十字架によって過去の罪を見逃されていることであるし、
(ローマ書3-21)
将来、死人の復活によって新しく造り変えられることでもあるし、
(ローマ書8-10)
さらには、過去の罪を見逃され、将来造り変えられる人間であるからこそ、
イエスの如く生きんとすること、
イエスの如く、強き者が弱き者を受け入れる場こそ神の国であること、
これもまた、パウロが言うところの神の義である。
(ローマ書14-17)
すなわち、神の義とは、今まで犯してきた罪を免除し(過去)、
将来人間を罪から完全に脱せしめ(未来)、
今人間をして、他人のために自分を犠牲に捧げしめるものである(現在)。
神の義は、過去・未来・現在に働き、今・ここで、神の国を樹立させるものである。
(だがその完成は将来のことである)
過去の罪の見逃し(過去)を剣の柄だとすれば、
将来の死人の復活(将来)は剣の本体、中央であり、
今ある神の国(現在)は剣の切先であるといえる。
みな、同じ福音であり、神の義である。
一方で、パウロと同じように義(δικαιοσυνη)を重視した人に、
福音書記者マタイがいる。
私はまだマタイ伝の原典研究を9章までしか終えていないが、
最も重要な箇所で、義を強調するのである(マタイ伝5-6、10、20、6-1、33)。
しかもこの人、Q資料にはなかったであろう箇所に、わざわざ義を挿入している(5-6、6-33)。
この人にとって、如何に義が重要な概念であったかの証左である。
ただこの人にとって神の義とは、
パウロが言うところの今ある神の国のこと(剣の切先)に集中されており、
パウロの意味での義の概念の広さがない。
それはきっと、福音をして自分の罪を赦してくれる神の恵みとしてだけ受け取り、
「神に服従(υπακοη)し生きる」というパウロの福音の結論が、
理解されていなかったからではないか!?
山上の垂訓は、パウロの福音を誤解して都合のいいように解釈する人々に向けた、
剣の切先の鋭さのように読めるのである。
きっとそうである。
かつて内村鑑三は、「新約聖書にあらわれた思想系統」と題して、
「マタイ伝の次にパウロ書簡」を読めと言った(内村鑑三全集18巻)。
正文批評の発達していない当時にしては、随分と鋭い発言をされた内村氏であるが、
これは完全に間違いだと思う。
パウロ書簡の次に、マタイ伝は読まれるべきである。
剣は、最初に全体を見て、その後に、剣の切先を見つめるべきである。
剣の切先だけを見つめて、人はその鋭さを認識できないのである。
パウロの義の概念を知って後に、マタイの限定されてはいるが、
しかしその結論を強調した義の鋭さを知るべきである。
新約聖書学者・田川建三氏によると、義とは、
自動詞的意味はあるが他動詞的意味はないという(田川建三「新約聖書」ローマ書の箇所)。
すなわち、神の義とは、「神が正しい」という意であって、
「神が正しいと認める」意味はないという。
私は聖書の専門家ではないし、言語学の権威でもないが、
自分の良心の問題に照らしてみて、まことに有益な指摘だと思う。
福音とは、「神が正しい」という宣言である(ローマ書1-17)。
故に過去のことでもあり、未来のことでもあり、現在のことでもある。
「神が正しい」-故に人は、過去の罪を見逃されたのである(ローマ書3-21)。
「神が正しい」-故に人は、将来造り変えられるのである(ローマ書8-10)。
「神が正しい」-故に人は、今ここで神の栄光のために生きるのである(ローマ書14-17)。
この、「神が正しい」を、「俺は正しい」に聞き違える人々に向かって、
マタイ福音書記者は言うのである。「神が正しいなら、イエスの如く生きろ!」と。
故に、人は、パウロ書簡を読んだ後に、研究した後に、マタイ伝を読むべきである。
やはり夏の間は、聖書研究が遅々として進まない。
授業を5つもこなすと、夜中は意識が朦朧として、
全然集中できないのだ。
だから去年と同じように夏の間は、原典読解を一時中断し、
今まで研究してきた事柄を黙想し考察していた。
(本当に眠ってしまうことがほとんどだが・・・)
原典読解という意味では、いっけん無駄に思えるような黙想だが、
しかしこういうことも必要である。
一個一個の文を追わずして、パウロ本人、マタイ本人の根本思想を考察すること。
一本一本の木を調べずして森はわからないが、
全体としての森を俯瞰せずして、一本一本の木もわからないのであるから。
パウロの福音のキーワードは、「義(δικαιοσυνη)」である(ローマ書1-17)。
キリスト教神学においては義認論と呼ばれて、
「人間はただ信じるだけで義とされる」という意味に解されているが、
パウロ自身の「義」の概念はもっともっと広い。
パウロにとって義とは、
人間がイエス・キリストの十字架によって過去の罪を見逃されていることであるし、
(ローマ書3-21)
将来、死人の復活によって新しく造り変えられることでもあるし、
(ローマ書8-10)
さらには、過去の罪を見逃され、将来造り変えられる人間であるからこそ、
イエスの如く生きんとすること、
イエスの如く、強き者が弱き者を受け入れる場こそ神の国であること、
これもまた、パウロが言うところの神の義である。
(ローマ書14-17)
すなわち、神の義とは、今まで犯してきた罪を免除し(過去)、
将来人間を罪から完全に脱せしめ(未来)、
今人間をして、他人のために自分を犠牲に捧げしめるものである(現在)。
神の義は、過去・未来・現在に働き、今・ここで、神の国を樹立させるものである。
(だがその完成は将来のことである)
過去の罪の見逃し(過去)を剣の柄だとすれば、
将来の死人の復活(将来)は剣の本体、中央であり、
今ある神の国(現在)は剣の切先であるといえる。
みな、同じ福音であり、神の義である。
一方で、パウロと同じように義(δικαιοσυνη)を重視した人に、
福音書記者マタイがいる。
私はまだマタイ伝の原典研究を9章までしか終えていないが、
最も重要な箇所で、義を強調するのである(マタイ伝5-6、10、20、6-1、33)。
しかもこの人、Q資料にはなかったであろう箇所に、わざわざ義を挿入している(5-6、6-33)。
この人にとって、如何に義が重要な概念であったかの証左である。
ただこの人にとって神の義とは、
パウロが言うところの今ある神の国のこと(剣の切先)に集中されており、
パウロの意味での義の概念の広さがない。
それはきっと、福音をして自分の罪を赦してくれる神の恵みとしてだけ受け取り、
「神に服従(υπακοη)し生きる」というパウロの福音の結論が、
理解されていなかったからではないか!?
山上の垂訓は、パウロの福音を誤解して都合のいいように解釈する人々に向けた、
剣の切先の鋭さのように読めるのである。
きっとそうである。
かつて内村鑑三は、「新約聖書にあらわれた思想系統」と題して、
「マタイ伝の次にパウロ書簡」を読めと言った(内村鑑三全集18巻)。
正文批評の発達していない当時にしては、随分と鋭い発言をされた内村氏であるが、
これは完全に間違いだと思う。
パウロ書簡の次に、マタイ伝は読まれるべきである。
剣は、最初に全体を見て、その後に、剣の切先を見つめるべきである。
剣の切先だけを見つめて、人はその鋭さを認識できないのである。
パウロの義の概念を知って後に、マタイの限定されてはいるが、
しかしその結論を強調した義の鋭さを知るべきである。
新約聖書学者・田川建三氏によると、義とは、
自動詞的意味はあるが他動詞的意味はないという(田川建三「新約聖書」ローマ書の箇所)。
すなわち、神の義とは、「神が正しい」という意であって、
「神が正しいと認める」意味はないという。
私は聖書の専門家ではないし、言語学の権威でもないが、
自分の良心の問題に照らしてみて、まことに有益な指摘だと思う。
福音とは、「神が正しい」という宣言である(ローマ書1-17)。
故に過去のことでもあり、未来のことでもあり、現在のことでもある。
「神が正しい」-故に人は、過去の罪を見逃されたのである(ローマ書3-21)。
「神が正しい」-故に人は、将来造り変えられるのである(ローマ書8-10)。
「神が正しい」-故に人は、今ここで神の栄光のために生きるのである(ローマ書14-17)。
この、「神が正しい」を、「俺は正しい」に聞き違える人々に向かって、
マタイ福音書記者は言うのである。「神が正しいなら、イエスの如く生きろ!」と。
故に、人は、パウロ書簡を読んだ後に、研究した後に、マタイ伝を読むべきである。
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