① 原理
無宗教主義というのは、私の独自のもので、
宗教に反対する立場です。
「人間の救いは宗教にはなく、キリストにある!」
という戦闘的態度であります。
この場合の宗教とは、歴史的に形成されてきた世界宗教(キリスト教も含む)のみならず、
また巷で蔓延している新興宗教のみならず、
神にまで至らんとするすべての人間的営為を指します。
そういう意味で、神など必要ないという無神論も宗教であり、
この世の事業が達成されればよいと考える成功哲学も宗教であり、
神など関心もないしどうでもいいと考える無頓着主義も宗教であります。
見る人によれば、これは一種の破壊主義に思えるかもしれませんが、
「イエス・キリストのみが真理である!」という立場の、必然的帰結だと思います。
② 個人的動機
私が無宗教主義という立場を主張するのは、
何も自己の哲学を語って、独自の世界観を構築したいからではありません。
私は幼児期から、徹底して宗教を嫌う人間でありましたし、
特にキリスト教を蔑視する人間でありました。
ですから私は、人生何があっても、
「決して聖書だけは触れまい!」と考えていた・・・。
それがある日、罪の煩悶を経験し、その解決を様々なものに求めても得られず、
「キリストが私の罪を贖い給うた」という福音によって、
罪の解決を得ることができた。
キリスト教を蔑視する人間が、キリストによって回心した訳ですから、
しばらくは戸惑いましたが、聖書をよく読んでみると、
キリストとキリスト教は別物であることを実感しました。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、
信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ書3-28)
「イエス・キリストのみが真理である!」と強く実感する反面、
私を今までキリストから遠ざけてきたキリスト教という存在が、
私をして、キリストとキリスト教は別物であると言わしめるのです。
③ 無宗教主義の意味
「キリストのみが真理ならば、何も無宗教主義などと主張する必要はないではないか!?」
とご指摘を受けたならば、私は悲しいかな、このように答えるしかありません。
この世は不完全でありますし、似て非なるものが実に多い。
ですから、こんな世の中であるからこそ、主義主張を明確にし、
自分と他者を区別する必要があると思うのです。
私はキリストは素晴らしい方であると思いますが、
キリスト教は素晴らしくも何ともないと考える者です。
私にとって、キリスト教こそ、キリストを人間から阻害する存在であった。
ですから私は、個人的動機により、このような立場を堅持する者であります。
④ 教会の問題
ならば、教会の問題はどうなるのか?
私にとって教会とは、行ったことのない場所でありますから、
既存の教会云々は、正直わかりません。
宗教も教会も知らずにキリストを啓示されたのですから、
私個人としては、そのままの状態にとどまって、
キリスト者の生を生きようと考えています。
おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(コリント書Ⅰ7-20)
ある一定の時間・空間において礼拝をしないということは、
私にとって、日々の仕事や家庭やもろもろの生活が、
礼拝となることを意味します。
教会の方からは不可思議だと思われるかもしれませんが、
私は教会に行ったこともないし、行く時間もないので、
そういう信仰形態をとっています。
今この状態を主から与えられた使命として、
誠実に果たしたいと考えている者であります。
ですから私は、今私が生きているこの日本という国に、
非常な関心があります。
「日本社会への警告」というブログを公開する所以であります。
⑤ 無宗教主義が実現する時
無宗教主義というものは、キリスト者が現実社会において礼拝することを意味しますから、
非常に精神力の有する立場なのかもしれません。
彼だって同志が欲しいかもしれない、この無神論社会において、
少しなりともキリストの精神をもって生きるということは、
大変な精神的負荷のかかるものなのかもしれない。
しかし彼の信仰を支えているものは、「キリストが再臨される」という約束にあります。
キリストが再び来られ、われらの救いを完成し、神の国を建設される。
この希望があるからこそ、キリスト者は理想に向かって進むことができる。
そして無宗教主義というものは、キリストのみを真理とする立場でありますから、
キリストが再臨し給い、われらがキリストの前に立った時に、
本当に成就される主義なのかもしれません。
⑥ 当ブログの方針
なぜ、このブログを公開しているのか?
私は宗教を蔑視しながらキリストによって回心しましたから、
そういう宗教を嫌う人々に、キリストを少しでも伝えたい。
そういう方々に、是非とも読んでもらいたいと考えています。
また、当ブログに対し、「教会を否定する輩」として攻撃されましても、
私は「行きたい人間は行けばいいし、行きたくない人間は行かなくてもいい」
ぐらいの立場ですから、正直困ってしまいます。
さらに、当ブログに対し、「教会を非難する人」として、
教会を嫌う方々から自己主張の代弁を期待されましても、正直困ります。
私は「無宗教主義」の立場を取りますが、「無教会主義」の立場を取りませんし、
それが私の主張の本質ではありません。
律法を否定したパウロ、カトリック教会を否定したルター、
教会制度を否定した内村鑑三を、私は慕います。
しかしそれは、否定したからというよりも、
「キリストのみが真理である」と主張したという意味で、
私は彼らを同志と考えています。
(彼らのような大人物ではありませんが・・・)
ですから、律法やカトリックや教会制度を否定したこと自体の中に、
私は共感しているのではありません。
それはあくまでも、時代状況に応じた福音唱導の必然的結果に過ぎないと考えます。
無宗教主義というものは、キリストのみが真理であり、
彼のみに従いたいという立場であると考えます。
ですから、カトリックであれプロテスタントであれ無教会であれ、
極端に言えば、仏教徒であれ儒教徒であれヒンズー教徒であれ、
キリストのみを真理と信じ、宗教に救済の可能性を求めないという方は、
同じ立場であると信じています。
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無宗教主義というのは、私の独自のもので、
宗教に反対する立場です。
「人間の救いは宗教にはなく、キリストにある!」
という戦闘的態度であります。
この場合の宗教とは、歴史的に形成されてきた世界宗教(キリスト教も含む)のみならず、
また巷で蔓延している新興宗教のみならず、
神にまで至らんとするすべての人間的営為を指します。
そういう意味で、神など必要ないという無神論も宗教であり、
この世の事業が達成されればよいと考える成功哲学も宗教であり、
神など関心もないしどうでもいいと考える無頓着主義も宗教であります。
見る人によれば、これは一種の破壊主義に思えるかもしれませんが、
「イエス・キリストのみが真理である!」という立場の、必然的帰結だと思います。
② 個人的動機
私が無宗教主義という立場を主張するのは、
何も自己の哲学を語って、独自の世界観を構築したいからではありません。
私は幼児期から、徹底して宗教を嫌う人間でありましたし、
特にキリスト教を蔑視する人間でありました。
ですから私は、人生何があっても、
「決して聖書だけは触れまい!」と考えていた・・・。
それがある日、罪の煩悶を経験し、その解決を様々なものに求めても得られず、
「キリストが私の罪を贖い給うた」という福音によって、
罪の解決を得ることができた。
キリスト教を蔑視する人間が、キリストによって回心した訳ですから、
しばらくは戸惑いましたが、聖書をよく読んでみると、
キリストとキリスト教は別物であることを実感しました。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、
信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ書3-28)
「イエス・キリストのみが真理である!」と強く実感する反面、
私を今までキリストから遠ざけてきたキリスト教という存在が、
私をして、キリストとキリスト教は別物であると言わしめるのです。
③ 無宗教主義の意味
「キリストのみが真理ならば、何も無宗教主義などと主張する必要はないではないか!?」
とご指摘を受けたならば、私は悲しいかな、このように答えるしかありません。
この世は不完全でありますし、似て非なるものが実に多い。
ですから、こんな世の中であるからこそ、主義主張を明確にし、
自分と他者を区別する必要があると思うのです。
私はキリストは素晴らしい方であると思いますが、
キリスト教は素晴らしくも何ともないと考える者です。
私にとって、キリスト教こそ、キリストを人間から阻害する存在であった。
ですから私は、個人的動機により、このような立場を堅持する者であります。
④ 教会の問題
ならば、教会の問題はどうなるのか?
私にとって教会とは、行ったことのない場所でありますから、
既存の教会云々は、正直わかりません。
宗教も教会も知らずにキリストを啓示されたのですから、
私個人としては、そのままの状態にとどまって、
キリスト者の生を生きようと考えています。
おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。(コリント書Ⅰ7-20)
ある一定の時間・空間において礼拝をしないということは、
私にとって、日々の仕事や家庭やもろもろの生活が、
礼拝となることを意味します。
教会の方からは不可思議だと思われるかもしれませんが、
私は教会に行ったこともないし、行く時間もないので、
そういう信仰形態をとっています。
今この状態を主から与えられた使命として、
誠実に果たしたいと考えている者であります。
ですから私は、今私が生きているこの日本という国に、
非常な関心があります。
「日本社会への警告」というブログを公開する所以であります。
⑤ 無宗教主義が実現する時
無宗教主義というものは、キリスト者が現実社会において礼拝することを意味しますから、
非常に精神力の有する立場なのかもしれません。
彼だって同志が欲しいかもしれない、この無神論社会において、
少しなりともキリストの精神をもって生きるということは、
大変な精神的負荷のかかるものなのかもしれない。
しかし彼の信仰を支えているものは、「キリストが再臨される」という約束にあります。
キリストが再び来られ、われらの救いを完成し、神の国を建設される。
この希望があるからこそ、キリスト者は理想に向かって進むことができる。
そして無宗教主義というものは、キリストのみを真理とする立場でありますから、
キリストが再臨し給い、われらがキリストの前に立った時に、
本当に成就される主義なのかもしれません。
⑥ 当ブログの方針
なぜ、このブログを公開しているのか?
私は宗教を蔑視しながらキリストによって回心しましたから、
そういう宗教を嫌う人々に、キリストを少しでも伝えたい。
そういう方々に、是非とも読んでもらいたいと考えています。
また、当ブログに対し、「教会を否定する輩」として攻撃されましても、
私は「行きたい人間は行けばいいし、行きたくない人間は行かなくてもいい」
ぐらいの立場ですから、正直困ってしまいます。
さらに、当ブログに対し、「教会を非難する人」として、
教会を嫌う方々から自己主張の代弁を期待されましても、正直困ります。
私は「無宗教主義」の立場を取りますが、「無教会主義」の立場を取りませんし、
それが私の主張の本質ではありません。
律法を否定したパウロ、カトリック教会を否定したルター、
教会制度を否定した内村鑑三を、私は慕います。
しかしそれは、否定したからというよりも、
「キリストのみが真理である」と主張したという意味で、
私は彼らを同志と考えています。
(彼らのような大人物ではありませんが・・・)
ですから、律法やカトリックや教会制度を否定したこと自体の中に、
私は共感しているのではありません。
それはあくまでも、時代状況に応じた福音唱導の必然的結果に過ぎないと考えます。
無宗教主義というものは、キリストのみが真理であり、
彼のみに従いたいという立場であると考えます。
ですから、カトリックであれプロテスタントであれ無教会であれ、
極端に言えば、仏教徒であれ儒教徒であれヒンズー教徒であれ、
キリストのみを真理と信じ、宗教に救済の可能性を求めないという方は、
同じ立場であると信じています。
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ベルジャーエフという思想家を、私は知りませんでした。「新しき中世」ですか、非常に興味を持ちました。今度読んでみようと思います。