キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

強い善人-サムエル記Ⅰ21~31-

2008-11-06 01:45:08 | 聖書読解
ナバルが死んだと聞いたダビデは、「主はたたえられよ。
主は、ナバルが加えた侮辱に裁きを下し、僕に悪を行なわせず、
かえって、ナバルの悪をナバルの頭に返された」と言った。
(サムエル記Ⅰ25-39)



自分に為された悪に対して、取るべき手段は二つである。

その悪に反抗するか、もしくは、その悪をそのままにするか。

悪は許してはならぬものだが、人はおうおうにして、

他人の悪には敏感で、怒り易いものである。

だから私のように、怒り易い者の取るべき道は、

なるべくその怒りを抑え、二度三度、

自分の方に悪があるのではないかと熟考する必要がある。

怒る私自身も不完全な人間であれば、たいていの場合、

否は私の方にもあるものだ。


しかし、二度三度熟考して、相手に明らかな悪を認めた場合、

それをそのままにし、見過ごすことは、悪を野放しにすることになる。

相手に明らかな悪を認めて、それでもなお抗議の声をあげられない者は、

所詮臆病なだけであって、弱き善人と称すべき者である。

人はよろしく強き善人たるべきであって、か弱い善人であってはならない。


悪の性質は、自滅の性にある。

私個人が反抗しなくとも、神が必ずその復讐をされる。

故に私は、いたずらに悪に報復しようとしてはならない。

しかしそう考える私自身も、この善悪の闘争場に棲息するものであれば、

善の促進に貢献せねばならない者である。

自明な悪に対して抗議し、反抗し、敵対することは、

むしろ義務であるとさえ言える。


愛の権化であるキリスト御自身も、柔和であると同時に、

必要である場合には、激しく反抗し給うた。

福音書に記されているイエスの生涯は、柔和でやさしい救い主のそれであるとともに、

この世と徹底的に対峙し給うた預言者のそれである。

「我は誰でも許し誰でも愛す」などと自分で自分を納得させながら、

悪に反抗するのが恐いだけの臆病者であってはならない。

そういう人ほど、何でも許しているように見えて、何一つ愛したことのない人である。


寺院や教会や山林にこもって、一人悟りを開きたければ、

仏教徒になるほうがよい。その方が理にかなっている。

しかしキリスト者は、その信ずる者が進んで身を捧げた棘の冠の人であれば、

何でも許して悪の伸張に無関心であることはできない筈だ。


悪と対峙すれば、敵を作る。

敵を作れば、何となく聖書に反するように思える。

しかしキリストは、敵を愛することを教え給うたが、

「敵を作るな」とは言わなかった。

言うべき時、為すべき時には、

断固として悪に反抗すべきである。



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