キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

真正の祭り-サムエル記Ⅱ1~10-

2008-11-08 01:42:09 | 聖書読解
主の御前でダビデは力のかぎり踊った。
彼は麻のエフォドを着けていた。
ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、
角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。
主の箱がダビデの町に着いたとき、
サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、
主の御前で跳ね踊るダビデを見て、心の内にさげすんだ。
(サムエル記Ⅱ6-14~16)



祭りの本質は、神の御前で喜びの声をあげることである。

たとえ御輿が出なくても、たとえ夜店がなくても、

神の御前で喜び踊ることが祭りである。

そういう意味では、日々これ神聖な祭りである。

我々は日々の生活をもって、仕事に家庭に神を賛美することができる。


ある特定の日を定めて、酒まみれとなって狂乱を呈したり、

出歩いて食って飲んで騒ぐのが真正の祭りなのではない。

また、特定の神社の前で、特定の寺院の前で、

夜な夜な集まるのが祭りなのではない。

真正の祭りは、すべての時間・空間であげることができる。


私も昔は(この世の)祭りが大好きだった、しかし今は嫌いだ。

人嫌いするからではなく、騒がしいのが嫌いなのでもない。

ただ、あまりにも真正の祭りとかけ離れすぎて、

何となく行くのが億劫になった。

ましてや近隣の祭りは、地域活性化という大義名分の下に、

子どもが参加すれば一律一万円を配るような、反吐の出るものである。


この世の伝統であれ行事であれ、どうでもいいことは、

よろしく周囲に合わせ、共に楽しむべきである。

しかし、物事の外形がその本質をはなはだしく誤解させるようなものである時、

その本質を守るために、外形に「否」を表明することは、むしろ適切である。

それに、日々の(真正の)祭りに忙しいから、偽りの祭りに狂乱するほど、

暇ではないのである。



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