エペソ書・コロサイ書を読了する。
パウロの死後、数十年後、ここまで恐ろしくパウロの福音を理解し、
宣べ伝えようとした人間が存在したことに、改めて驚かざるを得ない。
パウロ在世当時においても、パウロはこの世の宗教と戦った。
それは律法という形で、割礼という形で、パウロが戦わねばならなかったものである。
(ガラテヤ書)
かかるパウロの対宗教戦争はパウロの死後も継続し、
今度はこの世の儀式という形(割礼)ではなく、霊的思想・哲学という形で、
福音を引き摺り下ろさんとしたのである。
パウロの後継者たちが戦わねばならなかったのは、
かかる霊的思想(グノーシス主義?密議宗教?)との戦いである。
コロサイ・エペソ書著者たちが戦った霊的思想がいかなるものであったかは、
まだ詳しく分からない。これから考究せねばならない。
しかしコロサイ・エペソ書の通読によって、大体の輪郭はわかる。
それは、こういうものだったであろう。
この世は霊的世界の力によって支配されていて、
(θρνοι、κυριοτητεσ、αρχαι、εξουσιασ)
人間はかかる段階的な霊的世界を昇りつめていくという形で真理を知り、
最後には恍惚境によって完全な悟りに達するというものである。
(α εορακεν εμβατευν)
かかる霊的思想に対抗するために、コロサイ書著者は言う。
「キリストが万物の頂点、すべての頂点であって、救いはただキリストのみにある」と。
(πρωτοτοκοσ πασησ κτισεωσ)
「あなた方はこの世の自己選択した宗教、偽りの敬虔を推奨する宗教から離れよ」と。
(自分の心に仕える自己選択の宗教:εθελοτρησκια)
「真の敬虔はただキリスト・イエスに屈服する中にある」と。
私はコロサイ書を読んで、文法的・言語的には錯綜しているが、
何とか近代的宗教思想を克服せんとしている著者の姿勢に、
ある種の親愛の念を抱かずにはいられない。
コロサイ書著者の志を継承し、それを徹底したのがエペソ書著者である。
エペソ書著者は思ったであろう。
「宗教というものは、福音を閉鎖的に限定し、世から離れ、自己を一段高い位置に置く時に生じる」と。
すなわち宗教を克服する道は、
「世へ突入する愛、すなわちエクレーシア論を正しく理解してもらう以外にないのだ」と。
「人類愛を語っているのに、私の内には隣人を愛する愛がない」と言ったのは
ドストエフスキーであるが、同様の感慨をエペソ書著者も持っていたのだと思う。
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
宗教というものは、人が人を愛する時に、意味がなくなるものである。
コロサイ書著者の戦いに真に決着をつけるには、パウロが特に強調したエクレーシア論を、
再び復興せしめるしかない、と。
故に、エペソ書においては、コロサイ書の引用が半分を占めているが、
一方で、エクレーシア論、キリスト者の抱くべき愛の思想が多く語られているのだと思う。
あなた方は人間に対するようにではなく、主に対するように(ωσ)、
善意をもってこの世の主人に仕えよ(エペソ書6-7/私訳)。
コロサイ書著者は、奴隷が主人に仕える際には、
ただ「主に仕えよ」(コロサイ3-24)と言った。
しかしエペソ書著者は、「主に仕えるように(ωσ)主人に仕えよ」と言う。
言わんとする意味はこうである。
キリスト者は、主に仕えて、次に隣人に仕えるのではない。
他人を愛するということは、抽象的に、思想的に考えてはならない。
抽象的に考えれば考えるほど、人は人を愛さなくなるのである。
キリスト者は、具体的人間の背後に、イエス・キリストを見ねばならない。
両親であり、恋人・伴侶であり、友人であり、仕事仲間であり、ご近所であり、
趣味仲間であり、同級生であり、元恋人・友人であり、
そういう具体的人間の背後にイエス・キリストを見、そして愛する時に、
人は真に宗教を克服し得るのである。
人は真に人を愛する時に、「愛」という言葉を語らなくなるのである。
しつこいほどに「愛」を語るのは、自分自身が「人を愛すること」に、
ある種の恐怖を抱いている証左なのである。
(エーリッヒ・フロム「愛するということ」)
パウロの死後、数十年後、ここまで恐ろしくパウロの福音を理解し、
宣べ伝えようとした人間が存在したことに、改めて驚かざるを得ない。
パウロ在世当時においても、パウロはこの世の宗教と戦った。
それは律法という形で、割礼という形で、パウロが戦わねばならなかったものである。
(ガラテヤ書)
かかるパウロの対宗教戦争はパウロの死後も継続し、
今度はこの世の儀式という形(割礼)ではなく、霊的思想・哲学という形で、
福音を引き摺り下ろさんとしたのである。
パウロの後継者たちが戦わねばならなかったのは、
かかる霊的思想(グノーシス主義?密議宗教?)との戦いである。
コロサイ・エペソ書著者たちが戦った霊的思想がいかなるものであったかは、
まだ詳しく分からない。これから考究せねばならない。
しかしコロサイ・エペソ書の通読によって、大体の輪郭はわかる。
それは、こういうものだったであろう。
この世は霊的世界の力によって支配されていて、
(θρνοι、κυριοτητεσ、αρχαι、εξουσιασ)
人間はかかる段階的な霊的世界を昇りつめていくという形で真理を知り、
最後には恍惚境によって完全な悟りに達するというものである。
(α εορακεν εμβατευν)
かかる霊的思想に対抗するために、コロサイ書著者は言う。
「キリストが万物の頂点、すべての頂点であって、救いはただキリストのみにある」と。
(πρωτοτοκοσ πασησ κτισεωσ)
「あなた方はこの世の自己選択した宗教、偽りの敬虔を推奨する宗教から離れよ」と。
(自分の心に仕える自己選択の宗教:εθελοτρησκια)
「真の敬虔はただキリスト・イエスに屈服する中にある」と。
私はコロサイ書を読んで、文法的・言語的には錯綜しているが、
何とか近代的宗教思想を克服せんとしている著者の姿勢に、
ある種の親愛の念を抱かずにはいられない。
コロサイ書著者の志を継承し、それを徹底したのがエペソ書著者である。
エペソ書著者は思ったであろう。
「宗教というものは、福音を閉鎖的に限定し、世から離れ、自己を一段高い位置に置く時に生じる」と。
すなわち宗教を克服する道は、
「世へ突入する愛、すなわちエクレーシア論を正しく理解してもらう以外にないのだ」と。
「人類愛を語っているのに、私の内には隣人を愛する愛がない」と言ったのは
ドストエフスキーであるが、同様の感慨をエペソ書著者も持っていたのだと思う。
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
宗教というものは、人が人を愛する時に、意味がなくなるものである。
コロサイ書著者の戦いに真に決着をつけるには、パウロが特に強調したエクレーシア論を、
再び復興せしめるしかない、と。
故に、エペソ書においては、コロサイ書の引用が半分を占めているが、
一方で、エクレーシア論、キリスト者の抱くべき愛の思想が多く語られているのだと思う。
あなた方は人間に対するようにではなく、主に対するように(ωσ)、
善意をもってこの世の主人に仕えよ(エペソ書6-7/私訳)。
コロサイ書著者は、奴隷が主人に仕える際には、
ただ「主に仕えよ」(コロサイ3-24)と言った。
しかしエペソ書著者は、「主に仕えるように(ωσ)主人に仕えよ」と言う。
言わんとする意味はこうである。
キリスト者は、主に仕えて、次に隣人に仕えるのではない。
他人を愛するということは、抽象的に、思想的に考えてはならない。
抽象的に考えれば考えるほど、人は人を愛さなくなるのである。
キリスト者は、具体的人間の背後に、イエス・キリストを見ねばならない。
両親であり、恋人・伴侶であり、友人であり、仕事仲間であり、ご近所であり、
趣味仲間であり、同級生であり、元恋人・友人であり、
そういう具体的人間の背後にイエス・キリストを見、そして愛する時に、
人は真に宗教を克服し得るのである。
人は真に人を愛する時に、「愛」という言葉を語らなくなるのである。
しつこいほどに「愛」を語るのは、自分自身が「人を愛すること」に、
ある種の恐怖を抱いている証左なのである。
(エーリッヒ・フロム「愛するということ」)
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