キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

牧会書簡について

2010-04-11 16:44:04 | 聖書原典研究(擬似パウロ書簡,公同書簡)
牧会書簡の一つであるテトス書を読了する。

この著者、パウロの後継者と自称しているが、

パウロの福音の最大の敵である。

パウロがいうところの「神の恵み」を思想的に取り込み、

信者が信ずべき教義と化して、人間を人間の奴隷たらしめるために書かれたものである。


パウロは、「キリストを受け入れること」を勧めるが、

外面的事柄である敬虔さ(ευσεβεια)や品位(σεμνοτησ)を勧めることはない。

パウロにとってキリストとは啓示であって伝承(κηρυγματι)ではない。

パウロは同じキリスト者たちに、自分の生き方への連帯(μιμητησ)を求めるが、

決して自分を倫理的手本(τυποσ)のように自己推薦することはない。

パウロにとって神の義(δικαιοσυνη)とは法廷的な意味であって、

人間は神の判決に服従する(υπακοη)ことによって、神の恵みを受け入れるといいたい。

しかしテトス書著者にとって神の義とは、倫理的な意味であって、

人間に善行を為さしめるきっかけとして、考えられているに過ぎない。

時々パウロらしいことを語りはするが(しかも定型的教義の告白という形で)、

それもあくまで「らしく」見せるために書いているに過ぎず、

時々出る本音では、パウロと正反対のことを語っているのである。


ある新約聖書学者が言うように、牧会書簡とは、

聖書成立前に教会側によって書かれた、パウロの福音を取り込み、

宗教化するために挿入された文書である、とはどうやら本当のようである。

注解書によっては、牧会書簡をこういう人がいる。

キリストの福音が世に広まる時、どうしても人間の組織は成立せねばならず、

その組織を整えるために書かれた、重要な文書である、と。

この書は、福音の史的展開を語る、重要な文書である、と。

しかし福音とは、歴史的現象ではない。

もしパウロの福音と牧会書簡の福音が同一のものであるとするならば、

神と悪魔が同一のもの、月とスッポンは一つだというに等しく、

宗教的迷信の最たるものだとしか言いようがない。


ならば新約聖書の正典とされている牧会書簡には、果たして価値があるのだろうか?

私は、この書簡が原始キリスト教団の腐敗を語るという意味で、

人間というものが、福音を使役してまで己の義を打ち立てんとする意味で、
(この線に沿って西洋キリスト教2000年間は進んできた)

一種の戒めとして価値があるのだと思う。


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