キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

二つの教会論

2010-04-28 20:20:38 | 聖書原典研究(擬似パウロ書簡,公同書簡)
御子はその体である教会の頭です。
御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。
こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
神は、御心のままに、満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、
万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
(コロサイ書1-18・19)



体と訳されている単語ソーマトス(σωματοσ)とは、

何かある出来事の主体となるものを指す(R・ブルトマン「新約聖書神学」)。

その前後の文脈において問題になっているのは「創造」であるから、

この体(σωματοσ)とは「宇宙万物」を意味する。

しかもコロサイ書著者は、この宇宙万物の次に、

同等の意味で教会(エクレーシア:εκκησια)を並べているから、

コロサイ1-18前半を訳し直せば、下記のようになる。


すなわちイエス・キリストはエクレーシアという宇宙万物の頭である(コロサイ書1-18)。


「御子は死者の中から最初に生まれた者」という句は、

不思議な言い回しである。

なぜなら、パウロであれば「死人の復活(αναστισ)」と言うところを、

この著者は「死者からの最初の者(πρωτοτοκοσ)」と言うのだから。

コロサイ書そのものの文脈からすれば、ここは創造の話である。

しかしパウロ書簡に照らし合わせれば、ここは死人の復活の話である。

すなわちこの著者は、こう言いたいのだと思う。

イエス・キリストは死人の復活によって新しき人間の創造を行う、
(コリント書Ⅰ15章)

その時に人間は、イエス・キリストが創造者の位置に立つべき者である、と。

死人の復活に照らして、汝らの創造論を解釈せよ、と。


「満ち溢れるものを御子の内に宿らせ」という句は、

非常に注意を要する表現である。

なぜなら日本語訳は、満ち溢れるもの(プレーローマ:πληρωμα)という言葉を、

何か特別な語のように解釈し(グノーシス主義に執着し過ぎ?)、

怠慢にもそのまま訳しているのだから。

この文脈は「神と万物」の話をしているのだから、プレーローマとは「万物」を意味する。

「宿らせる」と訳されている単語は、自動詞にも他動詞にも訳せる表現である。

これを他動詞的意味に解釈すれば、下記のようになる。


こうして神は万物をイエスの中に宿らせることをよしとした(コロサイ書1-19)。


以上のような事柄を考慮して、もう一度訳しなおそう。


すなわちイエス・キリストはエクレーシアという宇宙万物の頭である。
彼はあらゆることにおいて第一の者となるために、初めに命をもった者として復活の命である。
こうして神は万物をイエスの中に宿らせることをよしとした。
すなわち、すべてのものを彼に向かって改変させ、
地上にあるものも天にあるものも、万物を神に対して平和な状態にするためである。
(コロサイ書1-18・19/私訳)


パウロにとってエクレーシアとは(教会)、全人類だった。

同様に、パウロの後継者であるコロサイ書著者にとっても、宇宙万物だった。

同様に、パウロの後継者であるヨハネ福音書著者にとっても、世そのものだった。
(コスモス:κοσμοσ)

不思議なことに、ヨハネ福音書においてエクレーシアという語は存在しない。

それは多分、当時すでに誤解されていたパウロのエクレーシア観、

ある宗教的条件を満たさねば神の恩恵に与れぬというエクレーシア論を否定し、
(テモテ書Ⅰ・Ⅱ、テトス書を読め!)

その代わりに、エクレーシア(εκκησια)が来て然るべき位置に、

世(コスモス:κοσμοσ)を入れたからだと思う。

故に私は、パウロ及びパウロの後継者の精神に則って言う。

教会と訳されたエクレーシア(εκκησια)とは、全人類、世そのもの、

神の恵みの対象であるすべての人(παντεσ)であると。

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