キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

エクレーシアの巨大さ

2010-04-02 18:33:42 | 聖書原典研究(擬似パウロ書簡,公同書簡)
あなた方がキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるように。(エペソ書3-18・19)



日本語訳聖書において「キリストの愛」と訳されている部分は、

厳密には原典には存在しない。

存在しないというよりは、「人の知識をはるかに超えるキリストの愛」とは書いてあるが、

「広さ、長さ、高さ、深さ」が何のことを指しているのかは、記述されていないのである。

エペソ書著者が願っているのは、何かあるものの巨大さと、

人知を超えたキリストの愛を、読者が知るようになることである。

問題なのは、何の巨大さを語っているかなのである。

すなわち、著者がキリストの愛の巨大さを示唆しているのか、

もしくは、何か他のものを指しているのか?


著者が読者に知るように望んでいる二つのこと、

すなわち「何かの広さ、長さ、高さ、深さ」と「人知を超えたキリストの愛」の間には、

τε(テ)という一語が存在する。

これ「~も」という表現であって、何か二つのものを並列する時に用いる表現である。

そうであるならば、著者は、キリストの愛ではない「何か」の巨大さを語っていることになる。

この何かを知るために、著者がどんな脈絡でこの語を記しているかを確認せねばならない。


エペソ書著者の語りたいことは、エクレーシアの真の姿である。

教会と訳されているこのエクレーシア(εκκησια)とは、

パウロにとっては(神の恵みの対象である)全人類を意味する。

著者はかかるエクレーシア論を強調したいのである。

であるから著者は、まずパウロの福音の要諦を語り(1-3~1-23)、

パウロが言うところのエクレーシア論を展開し(2-1~3-21)、

かかるエクレーシアを知ったキリスト者の歩むべき生き方を語る(4-1~6-20)。

エクレーシア論をまずキリストに基づいて理論的に語り(2-1~3-21)、

その後に、エクレーシアの具体論に入っていく(4-1~6-20)。

この境界に位置するのが、我々が今考察している聖句なのである。


とすれば、「広さ、長さ、高さ、深さ」とは、

明らかにエクレーシアを指していることがわかる。

著者はこう言いたいのである。

あなた方が自分たちの有にしているエクレーシア、

あなた方が自分の自己愛のために形成しているエクレーシアとは、

本来は全人類のことである。

かかるエクレーシアの巨大さを、あなた方が知るように。

このエクレーシアの巨大さの根拠は、イエス・キリストの愛にあるのである。

あなた方もキリストの愛を知った者ならば、

エクレーシアの巨大さを理解することができるだろ?と。


あなた方がエクレーシアがどれほどの広さ・長さ・高さ・深さをもっているか、
そして人間の認識をはるかにしのぐキリストの愛がいかなるものであるか、
知ることができるように。(エペソ書3-18・19/私訳)


パウロと同じようにパウロの後継者も、

当時の自己満足的団体と化した「教会」と戦っているのである。

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