キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

一つである現実

2010-03-17 20:23:56 | 聖書原典研究(擬似パウロ書簡,公同書簡)
平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい(エペソ書4-3/新共同訳)。



「絆」と訳された単語スンデスモー(συνδεσμω)とは、

縄目や足枷を意味する単語である。

「一致する」と訳された単語エノテータ(ενοτητα)とは、

人間が意識的に合同することではなく、「一つである現実」を意味する。

「保つ」と訳された単語テーレイン(τηρειν)とは、

「保つ」とも「守る」とも「見張る」とも訳せる語である。

戒めや規則に関してなら「保つ・守る」であるが、

一つである現実が目的語であるから、「見張る」の意味であろう。

また「平和」と訳された単語エイレーネー(ειρηνη)とは、

平和・平安とも訳せるが、旧約的意味に従えば、

究極的な救いを意味する。

以上を考慮して訳しなおせば、下記のようになる。


究極的な救いの縄目にあって、一つである現実を見張り続けなさい(エペソ書4-3/私訳)。


言わんとする意味はこうである。

イエス・キリストの恩恵は、すべての人間を救いに導く代物である。

かかる福音を信じる者にとって、伝道とか宣教とかは、

ある種の義務でさえある。

人が人に強いる義務ではない、組織が人間に課する義務でもない。

ましてや、強迫神経症的に超自我が強いる義務でもない。

神の恵みのあまりの圧倒さ故に、そうせざるを得ない代物なのである。

それは強制でもあり喜びでもあり運命でさえある。

故にエペソ書著者は、「究極的な救いの縄目」という。


そしてかかる圧倒的な神の恵みは、

人間相互がキリストにあって本来的に一つであることを知らしめる。

人間と人間の関係にあっては、その境遇、その教育、その宗教、その品性、

その性格、その信仰によって、決して一致一体たることはできない。

しかし「イエス・キリストにあって」、すべての人間の罪が十字架につけられたが故に、

人間相互の障壁は根本的に殲滅せられ、人間相互の憎悪、いや無関心は殲滅せられ、

一つである現実を「イエス・キリストにあって」知ることができる。

故に、「一つである現実を見張れ」という。


人間は、人間的努力によって一体たることはできない。

人間は、イエス・キリストによって示された神の真実(現実)を見ることによってのみ、

一つとなることができ、いや、既に一つである現実を認識することができる。


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