体は一つ、霊は一つです。
それは、あなた方が、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、
すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エペソ書4-4~6/新共同訳)
聖書は神の言葉だからといって、まるで現実から宙に浮いた言葉のように読んではならない。
聖書も人間が書いた言葉であって、時代の風潮に支配されていることを考慮せねばならない。
ある一定の時代の思想に影響され、ある一定の時代の流行に影響され、
ある一定の時代の言葉使いに影響され、いわゆる聖句というものを記したのである。
かかることが最も強く表れているのが、上記の聖句である。
エペソ書著者の時代は、同意語反復によって、
言わんとする内容を強調することが一つの流行であった。
であるから、同義語反復されている語に意味の違いはなく、
読者はむしろ、著者が何を強調しているかに注目せねばならない。
「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」と訳された箇所は、
明確に「一つ」の同意語反復であって、
最初の「一つ(εισ)」は男性名詞、次の「一つ(μισ)」は女性名詞、
最後の「一つ(εν)」は中性名詞である。
著者はあらゆる一つを列挙して、神の救いが一つであること、
イエス・キリストにあって人類が一つであることを主張しているのである。
すなわち、「主(κυριοσ)」「信仰(πιστισ)」「洗礼(βαπτισμα)」
という語は、単に「一つ」を飾る付属の語であって、読者が注目すべき言葉ではない。
「信仰は一つであるべきだ」と言って信者を圧迫することも、
「洗礼は一つであるべきだ」と言って儀式的強制を課すことも、
まるで見当はずれなのである。
故に、エペソ書著者の志を忖度すれば、下記のような訳になる。
神に恵まれた人類は一つ、人類を救わんとする神は一つである。
あなた方が召された死人の復活という希望が一つであるように。
一つ、一つ、一つである!
父なる神はすべての人の上におられ、すべての人に突入し、
すべての人の内にあって救いを完うするのである。
(エペソ書4-4~6/私訳)
聖書の聖句は、抽象的に、精神主義的に解釈してはならない。
聖書の聖句は、具体的に、著者の時代状況を鑑みて、リアルに解釈せねばならない。
それは、あなた方が、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、
すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エペソ書4-4~6/新共同訳)
聖書は神の言葉だからといって、まるで現実から宙に浮いた言葉のように読んではならない。
聖書も人間が書いた言葉であって、時代の風潮に支配されていることを考慮せねばならない。
ある一定の時代の思想に影響され、ある一定の時代の流行に影響され、
ある一定の時代の言葉使いに影響され、いわゆる聖句というものを記したのである。
かかることが最も強く表れているのが、上記の聖句である。
エペソ書著者の時代は、同意語反復によって、
言わんとする内容を強調することが一つの流行であった。
であるから、同義語反復されている語に意味の違いはなく、
読者はむしろ、著者が何を強調しているかに注目せねばならない。
「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」と訳された箇所は、
明確に「一つ」の同意語反復であって、
最初の「一つ(εισ)」は男性名詞、次の「一つ(μισ)」は女性名詞、
最後の「一つ(εν)」は中性名詞である。
著者はあらゆる一つを列挙して、神の救いが一つであること、
イエス・キリストにあって人類が一つであることを主張しているのである。
すなわち、「主(κυριοσ)」「信仰(πιστισ)」「洗礼(βαπτισμα)」
という語は、単に「一つ」を飾る付属の語であって、読者が注目すべき言葉ではない。
「信仰は一つであるべきだ」と言って信者を圧迫することも、
「洗礼は一つであるべきだ」と言って儀式的強制を課すことも、
まるで見当はずれなのである。
故に、エペソ書著者の志を忖度すれば、下記のような訳になる。
神に恵まれた人類は一つ、人類を救わんとする神は一つである。
あなた方が召された死人の復活という希望が一つであるように。
一つ、一つ、一つである!
父なる神はすべての人の上におられ、すべての人に突入し、
すべての人の内にあって救いを完うするのである。
(エペソ書4-4~6/私訳)
聖書の聖句は、抽象的に、精神主義的に解釈してはならない。
聖書の聖句は、具体的に、著者の時代状況を鑑みて、リアルに解釈せねばならない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます