人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、購いの代価として、自分の生命を与えるためである。
(マタイ伝20-28)
「人の子が来たのが」
人の子とは、単なる人類の一人という意味である。
自分を特別視したがる現代人が言っても、謙遜の言葉である。
ましてや、神の子が言ったとなれば、謙遜を通り越して卑下である。
神の子にして、かかる真の自己卑下の言葉を発し得る。
「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」
王族の子は、民衆から仕えられることを欲する。
王子が民衆に仕えるなどということは、あり得ない話である。
しかし神の子は、人類の上に君臨して自分の全能性をアピールせずして、
かえって人類に仕え、尽くし、奉仕することを欲し給う。
「多くの人のための」
企業の社長は、社員と従業員のために生きる。
宗教の教祖は、信者と己の教義のために生きる。
教会の牧師は、教会員のために生きる。
しかし主は、キリスト教徒・非キリスト教徒を問わず、
ユダヤ人・非ユダヤ人を問わず、老若男女を問わず、
西洋東洋を問わず、多くの人のために生き給う。
「購いの代価として、生命を与える」
多くの人のために、彼は何をし給うたのか?
釈迦のように教えを垂れたのか?孔子のように倫理道徳を説いたのか?
ソクラテスのように学問を考究したのか?さては宗教の教祖のように、
自己栄光化のために新しき律法を強制したのか?
主は、自分の罪でもない、たかが他人の罪のために、
神に対する購いの代価として、生命を捧げ給うた。
キリスト教の真髄は、イエス・キリストのこの自己告白の中にある。
人類を審くべき方があえて審かれ、
栄光ある方があえて卑下せられ、
人類を絶滅してもよい方が、あえて人類のために死ぬことを欲した。
そして死なれた。
神が人のために死なれ、人が神によって生きる。
この事実の中に、キリスト教の真髄中の真髄があるのである。
私はイエス・キリストの罪であり、
イエス・キリストは私の義である。
彼の中に、すべての善き事がある。
実にそうである。
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また、多くの人のための、購いの代価として、自分の生命を与えるためである。
(マタイ伝20-28)
「人の子が来たのが」
人の子とは、単なる人類の一人という意味である。
自分を特別視したがる現代人が言っても、謙遜の言葉である。
ましてや、神の子が言ったとなれば、謙遜を通り越して卑下である。
神の子にして、かかる真の自己卑下の言葉を発し得る。
「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」
王族の子は、民衆から仕えられることを欲する。
王子が民衆に仕えるなどということは、あり得ない話である。
しかし神の子は、人類の上に君臨して自分の全能性をアピールせずして、
かえって人類に仕え、尽くし、奉仕することを欲し給う。
「多くの人のための」
企業の社長は、社員と従業員のために生きる。
宗教の教祖は、信者と己の教義のために生きる。
教会の牧師は、教会員のために生きる。
しかし主は、キリスト教徒・非キリスト教徒を問わず、
ユダヤ人・非ユダヤ人を問わず、老若男女を問わず、
西洋東洋を問わず、多くの人のために生き給う。
「購いの代価として、生命を与える」
多くの人のために、彼は何をし給うたのか?
釈迦のように教えを垂れたのか?孔子のように倫理道徳を説いたのか?
ソクラテスのように学問を考究したのか?さては宗教の教祖のように、
自己栄光化のために新しき律法を強制したのか?
主は、自分の罪でもない、たかが他人の罪のために、
神に対する購いの代価として、生命を捧げ給うた。
キリスト教の真髄は、イエス・キリストのこの自己告白の中にある。
人類を審くべき方があえて審かれ、
栄光ある方があえて卑下せられ、
人類を絶滅してもよい方が、あえて人類のために死ぬことを欲した。
そして死なれた。
神が人のために死なれ、人が神によって生きる。
この事実の中に、キリスト教の真髄中の真髄があるのである。
私はイエス・キリストの罪であり、
イエス・キリストは私の義である。
彼の中に、すべての善き事がある。
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