キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

神の子の告白

2007-09-22 23:04:53 | 聖書読解
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、
また、多くの人のための、購いの代価として、自分の生命を与えるためである。
(マタイ伝20-28)



「人の子が来たのが」

人の子とは、単なる人類の一人という意味である。

自分を特別視したがる現代人が言っても、謙遜の言葉である。

ましてや、神の子が言ったとなれば、謙遜を通り越して卑下である。

神の子にして、かかる真の自己卑下の言葉を発し得る。


「仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」

王族の子は、民衆から仕えられることを欲する。

王子が民衆に仕えるなどということは、あり得ない話である。

しかし神の子は、人類の上に君臨して自分の全能性をアピールせずして、

かえって人類に仕え、尽くし、奉仕することを欲し給う。


「多くの人のための」

企業の社長は、社員と従業員のために生きる。

宗教の教祖は、信者と己の教義のために生きる。

教会の牧師は、教会員のために生きる。

しかし主は、キリスト教徒・非キリスト教徒を問わず、

ユダヤ人・非ユダヤ人を問わず、老若男女を問わず、

西洋東洋を問わず、多くの人のために生き給う。


「購いの代価として、生命を与える」

多くの人のために、彼は何をし給うたのか?

釈迦のように教えを垂れたのか?孔子のように倫理道徳を説いたのか?

ソクラテスのように学問を考究したのか?さては宗教の教祖のように、

自己栄光化のために新しき律法を強制したのか?

主は、自分の罪でもない、たかが他人の罪のために、

神に対する購いの代価として、生命を捧げ給うた。


キリスト教の真髄は、イエス・キリストのこの自己告白の中にある。

人類を審くべき方があえて審かれ、

栄光ある方があえて卑下せられ、

人類を絶滅してもよい方が、あえて人類のために死ぬことを欲した。

そして死なれた。

神が人のために死なれ、人が神によって生きる。

この事実の中に、キリスト教の真髄中の真髄があるのである。


私はイエス・キリストの罪であり、

イエス・キリストは私の義である。

彼の中に、すべての善き事がある。

実にそうである。



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