キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

注目すべきでない聖句

2010-03-26 21:41:33 | 聖書原典研究(擬似パウロ書簡,公同書簡)
体は一つ、霊は一つです。
それは、あなた方が、一つの希望にあずかるように招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、
すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エペソ書4-4~6/新共同訳)



聖書は神の言葉だからといって、まるで現実から宙に浮いた言葉のように読んではならない。

聖書も人間が書いた言葉であって、時代の風潮に支配されていることを考慮せねばならない。

ある一定の時代の思想に影響され、ある一定の時代の流行に影響され、

ある一定の時代の言葉使いに影響され、いわゆる聖句というものを記したのである。

かかることが最も強く表れているのが、上記の聖句である。


エペソ書著者の時代は、同意語反復によって、

言わんとする内容を強調することが一つの流行であった。

であるから、同義語反復されている語に意味の違いはなく、

読者はむしろ、著者が何を強調しているかに注目せねばならない。


「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」と訳された箇所は、

明確に「一つ」の同意語反復であって、

最初の「一つ(εισ)」は男性名詞、次の「一つ(μισ)」は女性名詞、

最後の「一つ(εν)」は中性名詞である。

著者はあらゆる一つを列挙して、神の救いが一つであること、

イエス・キリストにあって人類が一つであることを主張しているのである。

すなわち、「主(κυριοσ)」「信仰(πιστισ)」「洗礼(βαπτισμα)」

という語は、単に「一つ」を飾る付属の語であって、読者が注目すべき言葉ではない。

「信仰は一つであるべきだ」と言って信者を圧迫することも、

「洗礼は一つであるべきだ」と言って儀式的強制を課すことも、

まるで見当はずれなのである。


故に、エペソ書著者の志を忖度すれば、下記のような訳になる。


神に恵まれた人類は一つ、人類を救わんとする神は一つである。
あなた方が召された死人の復活という希望が一つであるように。
一つ、一つ、一つである!
父なる神はすべての人の上におられ、すべての人に突入し、
すべての人の内にあって救いを完うするのである。
(エペソ書4-4~6/私訳)


聖書の聖句は、抽象的に、精神主義的に解釈してはならない。

聖書の聖句は、具体的に、著者の時代状況を鑑みて、リアルに解釈せねばならない。


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