松坂大輔のことをJoseph A Reaves という作家が書いています。その一部を紹介します。
アジアの野球の魂は横浜にある。
1896年の横浜。日本人は、ここで野球に出会い、野球に熱い心を寄せた。
1世紀後も、その情熱はまったく変わることがなかった。
夏。すべての日本人は、活動を停止する。テレビとラジオに釘付けになり甲子園球場で開催されている高校野球を観戦するのだ。夏の甲子園の土を踏めるのは、47都道府県の苛烈な予選を勝ち抜いた球児だけだ。照りつける太陽の下、野球好きの高校生は甲子園で戦士になり、人々は戦士を語り継ぐ。20世紀終盤の大会に出場した伊良部秀輝と吉井理人はメジャーリーグに参戦した。
あの夏は忘れられない。
1998年の夏の甲子園大会の予選には、それまでで最も多い4,102校が出場した。1度の敗戦ですべてが終わる。生きるか死ぬかのプレッシャーが何百人もの若者の心を引き裂く。その光景が毎日全国に放送される。選手は全力で戦い、泥と汗と涙にまみれる。
勝ち残るのはただ1校。
1998年の夏。勝者は松坂大輔と横浜高校だった。横浜。あのアジアのベースボールの魂が生まれた地。
松坂は、横浜高校のエースで、4番バッターだった。松坂は、1896年にアメリカチームを倒すべく横浜に向かった一高野球部の精神的後継者でもあった。1世紀前、一高野球部を止められるものは誰もいなかった。そして1998年、松坂を止められるものも誰もいなかった。
ある試合では、腕に巻いた包帯をべリベリと引き剥がしてマウンドに立った。
また、ある試合では、17回250球を投げきり、横浜高校に勝利をもたらした。
そして、その数日後の1998年8月22日。彼は決勝の京都成章戦でノーヒットノーランを記録。多くの日本人が松坂を賞賛した。しかし、日本の野球、日本の文化では、敗者もまたヒーローになる。京都成章の野球部員は、すばらしい戦いぶりだったと尊敬された。ファンは「来年、また甲子園に戻ってくるんだぞ」とグランドで涙をこぼすナインを励ました。
松坂は、2000年のシドニーオリンピックで、再度アジアの野球の魂を具現化した。シドニーオリンピックは、はじめてプロ野球の選手が登録を認められた大会だった。松坂は、プロ2年目。まぎれもないスターになっていた。
彼に与えられた使命は、最強のキューバを倒し、金メダルをとることだった。1998年の甲子園のように、松坂は驚くべき投球を披露した。彼は、最も重要な3試合 - アメリカ戦と韓国戦2試合 - に先発した。その3試合で27イニングを投げ、25奪三振、被安打はわずかに21。しかし、日本は優勝できなかった。