先日のエントリで、井川治久先生から拙著出版に対して祝福のお言葉をちょうだいし、恐縮しました。
そのコメントで、井川先生から「ここ15年間における日本で感じ取る英語の質の変化についてどう思われるか?」という意見交換のご提案をいただきましたので、今回のエントリで私の私見を述べたいと思います。
しかし、本題に入る前に、井川先生のご紹介をさせていただきます。
詳しいプロフィールは、
こちらをご覧いただくとして、私と井川先生の接点を述べさせていただきます。
私と同じ早稲田大学出身の井川先生。私が高校生の時、東京・高田馬場の早稲田予備校で、すでに超人気のカリスマ講師の座を揺ぎ無いものにされていました。
私が高校生および大学受験生当時は3大予備校(代ゼミ・河合塾・駿台)が幅を利かせておりましたが、なぜか私は“早稲田予備校”とそのメイン校舎である“13時ホール”という名称が気に入り、高校2・3年生の夏期講習は、それぞれ2週間早稲田予備校に通いました。
しかし、言わずもがな、人気講師である井川先生の夏期講習の講座はすぐに締め切られてしまい、私にとっては雲の上のような存在。13時ホールのロビーにある書店で、井川先生の著書を、指をくわえて眺める以外に術がなかったのです。
そんな井川先生から、私のブログに初めてコメントをちょうだいしたのが2ヶ月ほど前のことでした。
(井川先生のブログは
こちらです。)
さて、本題の「ここ15年間における日本で感じ取る英語の質の変化」についてです。
井川先生がなぜ15年間といわれる真相は分かりませんが、15年前の1992年は私が浪人の末、早稲田大学政治経済学部に合格・入学した年です。
まず、当時の大学入試英語は、精読から速読を重視した時代への過渡期のような入試問題構成でした。400語を20分で読めれば充分でした。英語の新聞・雑誌などから抜粋した時事的内容の英文はまれにしかみられませんでした。
時を同じくして、慶応大学が湘南藤沢キャンパス(SFC)に総合政策学部と環境情報学部を設置し、早稲田との差別化を明確にし始めました。そしてこの2学部を筆頭に慶応大学は入試英文を超長文化させました。時事的な内容の英語の超長文が読め、解答に必要とされる情報をスキャニングできる。まさに、迎えつつあった国際化・情報化社会の中で、英語力が秀で、氾濫する情報の中から必要とされる情報を取捨選択できる力をもった学生の確保を、慶応大学が意図していたことは明らかです。
そして、早稲田を始め他の大学も追随していったように私には見受けられました。10年ほど前からは完全に精読から速読の時代に入りました。
その結果、明らかに高校で学ぶ英語をはるかに超越、いや無視した英語力が難関私立大学で見受けられるようになったと感じます。
現在、1000語を20分で処理できないと厳しいです。もちろん問題解答もこの時間に含めてです。
それとは対照的に、高校英語の現場ではやれ‘ゆとり教育’だ、やれ‘コミュニケーション重視の英語力’だで、高校生が学ぶ英語が昔と比べて軟派になりました。
コミュニケーション重視のカリキュラムにして、はたして英語を話せるようになったのでしょうか。むしろ、話せない、英語が分からない、という高校生が、昔よりも増加し、“英語難民”が増加しているように思います。
この15年間で二極化したように思います。つまり、英語ができる人と全くできない人。ほどほどにできる中産階級的などっちつかずの英語力の人は少なくなったと、私は考えます。