OT園通園日記

車椅子生活の母を老人ホームへ訪ねる日々。でもそればかりではいられない!日常のあれこれを書いています。

白バラの祈り

2006年02月18日 | 趣味(読書・洋裁・音楽・映画)
娘の振り袖一式を帝国ホテルまで持参した。
日曜日に記念写真を撮るので、事前に届けて、小物等に過不足がないかをチェックしてもらうため。

それ自体は、あっという間に終わってしまい、そのまま帰るのも芸がないので、日比谷で映画を見ることにした。
「白バラの祈り」という映画。
1943年ナチス支配下のドイツで本当にあった事件をもとに作られた映画とのこと。

ゾフィー・ショルという女子大生が、ヒットラー政権とその政策に反対するビラを大学構内でまいたために逮捕され、死刑を執行されるまでの数日間が描かれている。
都内まで映画を見に行くのはなかなか億劫なのだが、新聞評を見て見たいと思っていたものの1本だ。
なかなか見応えのある作品で、色々なことを考えさせられた。

映画を見ている中で最も感じたのは、「臆病さ」ということ。
どんなに信念を強く持っているからと言っても、たかだか少数の学生がまいたビラに、体制側がなぜそんなに過敏に反応するのだろうか。
自らを正しいと信じていればそれほど恐れることはなかろうに、「裁く側」の恐れを強く感じた。
それにしても、年を取ると言うことは臆病になるということなのだろうか。
ゾフィーのまっすぐな視線がとても美しく、今の私にはとても危ういものに感じられた。

もう一つ、自分の年齢を感じたシーンがあった。
処刑前に、両親とゾフィーに面会する場面。
彼女は取調中にも、「両親はどうなるの?母はもう60なの、耐えられないかもしれない」と案じていた。
しかし、両親は娘と会って抱きしめ、愛していること、そして娘を誇りに思っていることを伝える。
立派な親であり、立派な娘である。
でも母親としては、「立派じゃなくてもいい!無事に長生きしてよ」と思ってしまう。
これも、年齢からくる「臆病さ」の表れなのだろうか。

子供達が将来を決める時、母の「臆病さ」で足を引っ張らないようにしなくては。
でも、「年の功」という言葉もあるくらいなのだから、何かの参考になる程度には「石橋を叩いて渡る」ことも教えていきたいなどと、大して映画とは関係ないことを繰り返し考えていた。