たくさんの優しさ

大好きなもの・・・音楽、木村君、うちのニャンコ。

ステージの陰で。

2003年09月21日 15時17分28秒 | 日記
若かった頃、人前で演奏するのが好きだった。
かなり積極的だったと思う。
人に聴いて頂く・・・と言うより、自分が楽しみたくてやっていた様な気がする。

結婚する3年位前から、合唱団の常任伴奏者になった。
毎月きちんと謝礼も頂いていたので、真面目に真剣に取り組んでいた。

指揮者は3回代わった。
一人目は私より2才年上の男の先生だった。
この先生はなかなかイケメンで、市内では人気者だったので、皆に羨ましがられた。
演奏会の本番でステージに出て行く時はレディファーストという事で、何時も私が先に出て行った。
その時は何時も「さっ、行くよ!」と言って、私の背中を”ちょん”と優しく押してくれた。
そんなささやかな事が嬉しかった。

2年後、その先生は県立高校の教師に採用される事になり、弟子の若い男の先生にバトンタッチされた。
教え方や求めるものが180度変わってしまい、かなり戸惑いつつもコンビを組んでいた。
2年後、私は出産・子育ての為退団した。
もう、復帰するつもりは無かった。

3年後、その先生から電話がかかって来た。
2ヶ月後に定期演奏会を予定しているのに、伴奏者とトラブってしまい、伴奏者が辞めてしまったと言うのだ。
「お願いです!力を貸して下さい!助けて下さい!」
そう言われて、断る事は出来なかった。
たった2ヶ月で出来るだろうか?曲数は20曲以上有った。
自信は無かったが、頑張る事にした。
久しぶりに行った合唱団。
皆がそれはそれは温かく迎えてくれてた。
皆の温かさと合唱の楽しさに触れ、心が満たされた。

「演奏会が終わったら辞めよう。」と思っていたのだが、居心地が良くてしばらくの間居座っていた。
それから9ヶ月後・・・6月のある日、悲しい事が起こってしまった。
先生の家が早朝火事になり、先生とお母様が亡くなってしまったのだ。
足の悪いお母様を助けに行って力尽き、逃げ遅れてしまったのだ。
先生とお母様の間には、十字架のペンダントが置かれていた。31歳だった。
先生の追悼演奏会では、大好きだった「見上げてごらん夜の星を」を会場に来て下さった方全員で泣きながら歌った。

その後、ボイストレーナーをして下さっていた同い年の女の先生が指揮者になった。
この先生は、私が最初にコンビを組んでいた先生の奥様だ。
この先生とはとても気が合い、今は私の親友になっている。
彼女は私より先に拓哉君のファンになっている。
「ロンバケ」で嵌ってしまったそうだ。

今思えば色々な事が有った。
殆どが楽しい思い出だが、辛い事もあった。
特に思い出すのは、演奏会やコンクールの時の事だ。
コンクールの数日前に父が心筋梗塞で倒れ、助かる確率が低かったので友達に急遽伴奏をお願いしていたのだが、父に「行って来なさい。お父さんはそうして欲しいよ!」と言われ、泣きながら参加した。
幸い父は快復した。
定期演奏会の1ヶ月前に流産した事も有った。
義父が癌の末期で、看病しながら臨んだ定期演奏会も忘れられない。
子供を親に預けっぱなしで、子供の様子がおかしくなった事も有った。
不安発作との戦いも苦しかった。

今年のスマップのコンサートも終わってしまった。
拓哉君も毎年行われているコンサートの陰に、色々な思い出が有るだろう。
辛かった事、苦しかった事もきっと沢山有るだろう。
でも、拓哉君は何時も笑顔で私達に元気をくれた。
感謝の気持ちで一杯だ。
これからも、ずうっと拓哉君を応援して行く!
ありがとう!拓哉君!!

本日の私の好きな1曲

ブラームス作曲・ピアノ協奏曲 第一番 ニ短調 作品15

力強さと、ロマンティックな旋律が素晴らしい。熱くなれる曲。
この曲の第3楽章のメロディの一部分は、瀬名君がコンクールの本選で弾いた曲の一部分と酷似している。
ヒントになっているのだろうか?



今日の日記はちと暗かったにゃあ。ダメじゃん!>自分
コメント
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