楕円と円 By I.SATO

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『 私の自転車旅物語 2015 』-呼子・平戸・天草・南阿蘇から高千穂越えの旅 - 3

2021年12月26日 | 『私の自転車旅物語』

 

2015年4月7日

伊万里から昼過ぎに長崎県北部の平戸島に到着。本土と大きな橋で繋がっている。50Km

 

 

生きの良い魚が港に水揚げされていた。平戸はアジの漁獲量が日本一らしい。

食事に入った店で輪行しながら日本一周をしているご同輩にお会いした。長崎県南端の「野母岬」を強く勧められ、行くことにした。本州最西南端とのこと。

 

《ザビエル記念教会 平戸市;1931年 建て替え》

 

平戸は戦国時代には既に海外との交易を盛んに行っていた。1550年、ポルトガル船が入港したとの話を聞きつけて、前年に鹿児島に着いて日本に初めてキリストを伝えたフランシスコ・ザビエルが訪れている。

当時、平戸を治めていた松浦隆信は、貿易による地域発展への期待から布教を認め、領地であった平戸島西海岸と生月島の住民をキリスト教へ一斉改宗を行い、日本における最初のキリスト教繁栄の地となった。信者は「キリシタン」と呼ばれた。

 

《ザビエル記念教会の周囲に今も残る古いお寺》

 

日本各地でキリスト教が広がるにつれ、キリシタンと寺院や神社の間で対立も起き始め、江戸時代になって本格的な禁教が全国的に始まる。

平戸ではキリスト教に寛容だった松浦隆信の死後、全国的にも早い1599年から激しい弾圧が始まったという。

 

集落にあった教会堂や十字架は壊されたが、人々は仏教や神道を隠れ蓑として、納戸に深くしまわれた聖画などを礼拝し、グレゴリア聖歌にも似たオラショという祈りの言葉を唱えて密かに信仰を続けた。

“潜伏”キリシタンと呼ばれている。

 

長い禁教時代を耐えて信仰を続けてきた人びとがいる事が世に広く知られることになったのは、1853年のペリー来航で日本の鎖国が終わり、1865年に長崎にフランス人の礼拝堂として完成した大浦天主堂に潜伏キリシタンが訪れたからだった。

 

1873年、明治政府はキリスト教を解除し、教会が各地に立てられ、“潜伏”キリシタンは仏教や神道などを棄却してカトリック信者なったが、禁教時代に密かに守ってきた信仰のしかたを継続した人たちもいた。

教会を持たず、また禁教時代に行ったキリシタン信仰と仏教や神道なども並行して行う様式をそのまま続けることを選んだ人々である。

〝かくれ〟キリシタンと呼ばれている。

 

今もなお、〝かくれ〟キリシタンの信仰が残るという平戸島の沖合の小さな「生月島(いきつきしま)」を訪ね、泊まることにした。

 

平戸島から生月島へ渡る大橋。この日は横殴りの風が強く、寸前のところで交通止めになるところだった。

橋を渡り切った所に案内所があり、宿を紹介してもらった。

 

旅館『東富屋』。もともとは豆腐屋を営んでいて旅館業に変わった時に「東富」の字を充てたという。

 

島の北端の断崖に立つ「大バエ」 (大碆鼻)燈台。地球が丸いことを感じる。

 

生月島から平戸島を望む。

生月島は、緩やかな丘陵が広がる、漁業の島だった。

 

宿の物静かな老夫婦から「島の観音様を見ていったらいいよ」と教えて貰い、翌朝、探したが分からず仕舞いだった。

「観音様」であったことが生月島のキリシタンの歴史を物語っているように思えた。

旅から戻って、遠藤周作の『沈黙』を読み返した。

 

(つづく)

 

 

 

 



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