2015年4月9日
《平戸→佐世保の都市間バス》
雨模様なので平戸から佐世保までバス輪行した。この日の宿は、国道沿いにあった小型マイクロバスを改造したライダーハウスにした。
オーナーは北海道も詳しい若いバイクライダー。外は肌寒い小雨で貸し切りだった。近くのコンビニで弁当を買い、嬉しい空調暖房付きの"猫バス"でひとり宴会をしてぐっすり寝た。
2015年4月10日
一転、快晴。佐世保から長崎へ向かった。(50Km)
《大浦天主堂》
《原爆の爆心地》
長崎は坂の街。アップダウンの曲がりくねった小径が続く。
九州の言葉は分からないことが多い。道を訪ねて確認をすると「そう」という返事が返ってくるから、自分なりにルートを描くと必ずしもそうで無かったりする。
どうやら、こちらの言うことも伝わっていないようだ。「そう」という返答を繋げて行くと頭の中に間違ったルートが刻まれる。
この日の宿は予約しておいた「カトリック会館」。Y.Hとして一般客にも開放されている。
随分とぐるぐる回りして到着した。
同室は72才のバイクライダーだった。苦学生時代、大手カメラメーカーの企業戦士時代、そして離婚。
趣味のカメラを片手に全国バイク旅を続けていた。波乱の人生話を聴いて、まだまだ自分は甘いなぁと感じた夜だった。
2015年4月11日
平戸で出会ったチャリダーの勧めで、長崎県南端の野母岬に向かうことにした。(50Km)
市内を抜けてホッとしたところに随分と髙い橋が架かっていた。『長崎女神大橋』(1,289 m)だ。
長崎港によって分断されている長崎市の南部と西部を最短距離で結び、市内の交通混雑の解消と大型船による物流の改善で地域振興を図ろうとするものだった。
支柱からワイヤーで支える斜張橋としては国内で6番目の長さ。夜間にはライトアップされ、観光都市長崎の新しいシンボルとなっている。
野母崎の手前で東シナ海に浮かぶ“軍艦島”(端島)を眺めることが出来た。
小さな岩礁の下に石炭の鉱脈が見つかり、周囲をコンクリートで囲んで埋め立てして出来た人工の島に端島炭坑の城下町が出現した。
1974年に廃鉱となったが、最盛期には5,000人余りがその頃の東京都の9倍という世界一の人口密度の中で暮らしていた。
緑を育てる場所が無く、アパートの屋上に土を運び野菜や花を育てていたという。
1974年に閉山して今は廃墟だ。
軍艦のように見えるのは、日本最初の鉄筋コンクリート集合住宅などの炭坑施設の残骸である。
生まれ故郷の三井芦別でも小学生の時にエネルギー転換で街から次々に人が出て行く光景を見た。
収奪産業の宿命でもあるが、なかなか経験の出来ない社会で気づいたことも多かったように思う。人情と厳然たる格差の存在か。
間もなく「野母崎」に着いた。
陸地としては日本最西南端の地。宗谷岬には「日本最北端到達証明書」があるが、ここには無かった。少し残念だった。
関東圏でうなぎ割烹を営んでいた主人が野母崎に移り住んで始めたY.Hに泊まった。
珍しい魚の刺身が美味かった。
翌日、島原へ向かった。 (つづく)