Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

エゴロジーに終止符を!

2008-06-10 00:50:01 | 応用生命医科学:栄養・食糧農業・環境生理
環境だのエコロジーだのが喧しい。エコバッグと称して高級ブランドバッグが飛ぶように売れるご時世である。全く嘆かわしい。比較的廉価でも丈夫な鞄はあるし、また長持ちする。それらを購入して残額で他の事に使うとか、植林をするとか、色々と地球環境に優しい活動は出来るだろう。そろそろこの「エコブーム」と言う名の「エゴブーム」に嫌気がさしてきた。

ダイガクの頃に「環境論」なる科目が設置されていた気がする。人間を巡る生物学的環境から心理社会的環境に至るまでを総合的に論ずる学問であったように思う。学問とは呼べないかも知れないが、ともかく総合的・学際的アプローチでの通年講義であった。

内容たるや環境生物学、環境心理学、人間工学、社会学、文化人類学等の多種多様な教授陣が毎週分担で講義をするのである。ここで根底にあった思想に私は嫌気がさしていた。哲学的に分析をすれば「環境決定論」と言う科学思想が根底に存在していたのである。

環境決定論では有機体の主体性を基本的に認めない。これは外部環境に存在する変数を操作する事で有機体の行動を変容させると言う考え方を含んでいる。言い換えれば「環境変化に対して有機体は強制的に適応を迫られる」と言う考え方なのである。「地球環境が危機」であるから「二酸化炭素を減らせ」とか「クーラーは控えろ」等と言う強制力を持った思想なのである。「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか「避暑地へ退避しよう」等と言うような主体的・能動的な行動変容とは一線を画する思想であるのだ。

クルト・レヴィンらの場の心理学等においても適切な変数を設定して、これを操作する事で集団力学や社会集団行動を変化させる事が出来るとしていた筈である。タヴィストック人間関係研究所では、こうした理論的基盤を持った恐ろしい社会工学=洗脳工学が追及されていると言う。無論、正規の資格を持って研鑽を続ける臨床精神科医や臨床心理学者はタヴィストックの裏の顔を知らない。言える事はメディアをコントロールして情報環境を操作する事によって、「考える間」を与える事無く、メディアの流す情報に誘導されるがままに市民の行動が変容させられていくと言う事である。

かつての行動主義では「ウマを水飲み場に連れて行く事は出来るが、ウマに水を飲ませる事は出来ない」と言うテーゼがあった。環境決定論では「ウマと適当な映像装置を与えよ。そうすればウマに水を飲ませる事くらいは容易い。」となる。地球環境が本当に危機的な状況かどうか、皆で一度よく調べてみよう。環境危機を促す事で誰が得をするのか、誰が暗躍しているのか、ちょっと止まって考えてみてもよい。これこそ本当の環境倫理学となるだろう。もう国際金融資本と主要メディアの結託した「エゴロジー」は要らない。今こそ廃止して主体的な環境倫理を模索したい。そしてその上で、本当の環境学と人間行動のあるべき姿を皆で考えたい。

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