どすこい山根康民日記

道路交通に関する事を中心に紹介しています。

雨にも負けず…とはいかなかった三重県ツーリング

2021-10-11 17:32:24 | 日記
10/10(日)この日は、三重県まで走りましたが、何だろう?
ちょっとモヤモヤした気持ちを抱えながら出発しました。
当初の行先は、岐阜県関ケ原町としていましたが、何だろう?余裕が無いというか?
愉しいはずのツーリングが「関ケ原まで走らなければ!」という焦りにも似た感覚がありました。
結果、無茶な気持ちがあったからでしょう。

この日、三重県内は、熊野市内では晴れ間もありましたが、尾鷲市から松阪市までは、
雨が降ったり止んだり、曇り空だったりと天候が不安定でした。
そんななか、三重県明和町のイオンモール明和やケーズデンキ明和店のある
中村3交差点を走行中、雨に濡れたマンホール上でバランスを崩して転倒してしまいました。
初めての経験でしたが、私の大事な相棒(原付バイク)にも傷がついてしまい
自分自身に対してもショックを受けました。
雨にも関わらず、自分の運転技量を過信していた事を反省しました。

自分が転倒した事について、ブログに残す事をどうかなぁ?とも思案しましたが、
これも相棒との旅の記録という事で書きました。
さて出だしから暗い雰囲気ですが、旅自体は、とても楽しかったので紹介させて頂きます。

主な走行ルートは、白浜町→国道311号→三重県熊野市→国道42号→松阪市→国道23号→明和町(帰りもほぼ同じ道)
走行距離 約469㎞


この日は、午前4時前に白浜を出発しましたが、この時間まだ真っ暗なJR白浜駅。
空を見上げると、お星さんがキレイでした✨✨
まさか三重県では、雨に打たれるとは、この時は思いもしませんでした。
前日夜に天気アプリで三重県の天気を見た時は、降水量も0.△mmと1㎜以下の降水量だったので、
全然問題ないな!という判断でした。

田辺市中辺路町の小広峠近くにある温度計は、この時20℃
薄手のジャンパーと中に1枚、暖かい服を着ていれば問題ありません。

和歌山県から北山川に掛かる瀞大橋を渡れば、三重県熊野市紀和町の小川口交差点

熊野市にある24時間営業のガソリンスタンドで給油後、松阪市に向けて走ります。
松阪123㎞、尾鷲35㎞

熊野市、熊野灘の日の出

熊野灘の海は、広くて真っ直ぐ海岸線が伸びているので、とても好きな海岸の1つです。

夕焼けのような感じですが、朝陽が雲の隙間から水平線を照らしている光景は、
何とも言えない神々しさを感じます。
この時は、お天気も良かった上に、旅のテンションも上がって来ました。

紀北町にある道の駅海山
先程の熊野市から矢ノ川峠を越えて尾鷲市に入りますが、この頃からパラパラと雨が降り出し
紀北町に入る頃には、しっかりと雨が降って来たので、ここで少し雨宿りをしました。

道の駅海山(みやま)から大台ケ原方面を望む。
どんよりとした雲が見えますが、大台ケ原は、屋久島と並ぶ日本でも最も雨の多い地帯です。
http://kinki.env.go.jp/nature/odaigahara/about/nature/kikou.html
さすが、この辺りは、雨が多い所ですからね。

道の駅海山にある観光案内

道の駅海山から約600mにある馬越(まごせ)峠

見事な石畳です。現代人の私達には、ちょっと歩きにくいと感じますが、
当時の人々は、ぬかるんだデコボコ道より石畳の方が歩きやすかったかも知れませんね(^^ゞ

私は、この案内文を読んで興奮してしまいました?
文章の最後に、…道幅は紀州藩の駕籠(カゴ)にあわせて1間半(約2.7m)を基本としていた。という下りに、
これまでは、このような古い道は「何となく適当に道幅があったのかなぁ?」と思っていましたが、
殿様が乗るカゴに合わせて道幅が決められていた事を知り、思わず興奮しました。
えっ?そんな事で普通、興奮しないよ!って(;^ω^)


甦る神々のみち 熊野古道馬越峠

古来、熊野へ続く道は祈りの道であった。
ある者は極楽浄土の来世を夢見て、またある者は心身の悩みの癒しを求めて、
一歩一歩石畳を踏みしめていった。

「熊野へ参るには紀路と伊勢路のどれ近し、広大慈悲の道なれば、
紀路も伊勢路も遠からず」『梁塵秘抄』に唄われたように、
熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)へは、
紀伊半島を東からまわる伊勢路(東熊野街道)と、西からまわる紀伊路(中辺路、大辺路)を中心に、
中央部の峻険な山地を南下する大峯道、海路(磯辺路)などのルートがあった。

ここ馬越峠は、「くまのみち」と呼ばれた熊野街道の一部で、
明治以来大正6年までは県道であった。
路線が変更されて今は通る人も稀であるが、
麓から峠までの約2㎞の大部分は、敷石によって路面が舗装されていて、
今もほとんど完全に昔の面影をとどめている。
敷石は大きく、平らで、現存する石畳道のなかでも端正な表情が際立っており、
施工した便ノ山の石工の技術がうかがえる。
石は麓から運び上げたものではなく、全て現地調達されたという。
石の表面がところどころ白くなっているのは、材木を曳き下ろす際に苔が削りとられたもの。
植林により狭まった箇所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠にあわせて1間半(約2.7m)を基本としていた。


私は、歩く事には、まだ興味を持てていませんが、
話しが変わりますが、私はこの日朝4時前に白浜を出発しましたが、
真っ暗な道中を自転車(ロードバイク)で走る人を2人も見掛けました。
凄いなぁ~と思います( *´艸`)
私もこの先、もしかしたらロードバイクやウォーキングに興味を持つ日が来るのかなぁ?
少し違うかも知れませんが、同じ道でも車、バイク、自転車、歩くによって
景色の見え方が全く違います。私には、原付バイクから見える景色が好きですね。


さて紀北町(旧:紀伊長島町)を過ぎると大紀町に入ります。
少し走ると国道42号から駅が見えて来たので「ちょっとベンチで休憩でもしようか」と思い、
初めて立ち寄りましたが、写真の橋の隅に

えっ?しゅん工 昭和40年2月25日って新しいやん?
どうしても自分の生まれた年に近いと、そう思ってしまいます(^^ゞ
特に駅の事など全く気にしていなかったのですが、このプレートを見て駅に興味を持ちました。
プレートには、以下のように書かれています。

宮前開きよ 設計 天王寺鉄道管理局 施工 大鉄工業株式会社 (中略)
着手 昭和39年7月1日 しゅん工 昭和40年2月25日


駅の名前は、梅ケ谷駅です。



道路からホームへの階段

亀山・名古屋方面

尾鷲・新宮方面
正面のトンネルは、荷坂トンネル

しかし紀勢本線が全線開通したのは、昭和30年代(昭和34年(1959年)全通)だったはず?
何でこの駅は、昭和40年なの??不思議に思い周辺を探索すると見つけました。
詳しくは、ウィキペディア(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E3%82%B1%E8%B0%B7%E9%A7%85

梅ケ谷駅の開設を記念する石碑

牟婁(むろ)越えて 鶯(ウグイス)きくや 梅ケ谷

斎藤昇(当時の運輸大臣)による揮毫

石碑裏面

石碑の由緒について

この碑は昭和四十年当時の運輸大臣斎藤昇氏のご尽力により
国鉄梅ケ谷駅開設を記念して地元有志により建立したものであり
碑面の文字は同氏の揮毫である

牟婁越えて 鶯きくや 梅ケ谷

右の古句は紀伊家第十四代藩主 徳川茂承(もちつぐ)公が江戸参勤の途次
その行列も美々しく紀州の山坂を越え当地に入り鶯(うぐいす)を聞いて
興をそそられ作句したと伝えられている

なお一説には第八代藩主 徳川重倫(しげのり)公であるとされ
寛政十一年(1799年)四月十一日領内視察の為
荷坂を越え梅ケ谷の河内に入ると晩春の鶯がしきりに鳴いていた
梅ケ谷に鶯と此の風流なとりあわせに大いに喜び
即興に詠んだものともいわれる

関係資料(南紀徳川史 大内山七人衆文書)


梅ケ谷駅近くには、八柱神社があります

八柱神社 由緒

当神社は宮川の最上流、伊勢と紀伊の国境に位置し水清く、空気清浄にして
往古は鬱蒼足る大森林の中に鎮座せられ、素戔鳴命二天八王子社と拝し奉り、
創建は考謙天皇の後世天平勝宝元年(748)とも桓武天皇の御宇延暦十四年(795)又
それ以前とも伝えられしが何れが真実か定かでないが明治年間まで
境内に林立していた千数百年を経た老杉にその創建の更に古からん事と推察される。

伊勢神宮の「神宮文庫」の古書にみゆる「梅ヶ野」とは今の「梅ヶ谷」の事であり
此処に鎮座せらるる、当神社こそかっては大内山一円の尊崇されるべき氏神様であった。
江戸時代以前には二天八王子社と称されていたが、明治四年の神社調べで現在の
「八柱神社」と改称され、その際村のあちこちに散在していた
「津島」「稲荷」「愛宕」「秋葉」「山」「南宮」「大内」の各神社を合祀した。

明治八年七月に成った大内山全村人が署名した「合村議定書」の第七条に
「五組氏神」(八柱神社の意)の造営入費は大内山総割りと記載されており、
正に当神社は全村五字(駒、真弓、川口、中野、米ヶ谷)の産士神であった。
又当時、伊勢参拝を終えた旅人が更に熊野三山(那智、新宮、本宮)へ向かう
道中の無事と安全を当神社に祈りツヅラト峠へと向かった事であろう。

江戸時代になり、紀州徳川藩祖 頼宜公 が元和五年(1619)に参勤交代のため、
荷坂峠を開いて二つの道が使われる様になったが、伊勢と紀伊の国境であり又、
街道の分岐点に当たる「要」の地に鎮座します、当神社の古文書にも
「緒願祈るに霊験あらたかなり」「緒人と尊き歩みを運びて緒願を祈るに霊験あらんと言うことなし」とあり
その由緒の深さが窺われます。

どうか信心深き氏子の皆様方、そしてツヅラト峠へ、荷坂峠へ向かわれるグループの皆様
ご家族連れの皆様方、是非一度お参り下さいませ。
きっと皆様に よいこと がありますよ!


この文面を読んで思ったのは、宗教的な事は分かりませんが、
荷坂峠が江戸時代の紀伊の国と伊勢の国との国境(くにざかい)であった事を
改めて理解しました。今でも三重県の東紀州地域には、紀州の名残を感じさせるものがあります。
代表的なのは、駅名にもある紀伊長島です。
現在の紀北町は、旧海山町と旧紀伊長島町が合併したもので
旧紀伊長島町までは、紀州だったと思うと昔は、紀州藩って広かったんだなぁと思います。


八柱神社 社殿

中を少し拝見させて頂きました
あまり分かりませんが、何となくスゴイなぁ~と思いました。

川が流れています。


今日は、随分ゆっくりと寄り道をしながら走りました。
時間的に関ケ原は、もう無理やなぁ~と思いながらブラブラと走りました。
このあとは、三重方面に来ると よく立ち寄る道の駅奥伊勢おおだい へ寄りました
ここは、トイレ休憩以外にも ゆうちょ銀行ATMが設置されている事や
マックスバリュー大台店もあり、ちょっとした軽食を購入するにも便利なので
個人的には、お気に入りの道の駅の1つです。

この頃、雨は降ったり止んだりを繰り返していましたので、
道の駅では、食料品と飲料を購入してベンチに腰を掛けて
ゆっくりしていると40分も滞在していました(*´ω`*)
さぁもう今回、関ヶ原は完全に諦めて
鳥羽方面に走って見よう!と漠然と思うようになりました。

よし雨も止んだし出発しよう!
国道42号を松阪市方面に走り、
松阪多気バイパスを走って、国道23号から鳥羽へ向かいましたが、
距離的には、大台町の新田交差点で右折して、度会町を経由して伊勢市に入る方が
鳥羽へ行くには、近いのですが、時間もあったので大回りして走りました。

しかし松阪多気バイパスを走っている辺りから
少し雨が強くなってきました。そのまま国道23号を伊勢方面に走りましたが、
雨脚は、さらに強くなってきました。
松阪市から明和町に入った頃には「さすがに雨宿りをしよう」と思い
左方向にケーズデンキが見えたので、ここで雨宿りをしようと考え、
左折するため減速していたのですが、路肩左側にあった大きめのマンホールの上で滑ってしまい
原付のバランスを崩してしまい、そのまま転倒してしまいました。
本当に一瞬の出来事でしたが、ショックでした。

それでも運が良かったと思います。
あれだけ交通量の多い国道23号で、もし私の真後ろに後続車がいたら
避けられず私をはねていたかも知れません。
今回この助かった命、少しでも地域に恩返し出来る事をしようと思い
三重県方面に来る時は、必ず通る国道311号の和歌山県と奈良県の県境区間の整備について
和歌山県に提案書を出そうと思い「県政ポスト」宛に資料を作る事にしました。
今回の旅は、ここ明和町から先の鳥羽には向かわず
ゆっくり和歌山へ帰る事にしました。

そして先程、思い立った和歌山、奈良の県境区間の道路整備について
現地調査をして写真を撮り、距離を測定したりと資料作りの用意をしました。

国道311号 和歌山県側から見た奈良県との県境

国道311号 奈良県側から見た和歌山県との県境

和歌山県側の国道311号

和歌山県側の国道311号


道路調査を思い立った時、途中の川で不思議な石を見つけました。

えっ?何?この3つの穴は?自然に出来たもの?人工的にあけたもの?不思議です。

今回の旅は、色々と考えさせられる旅になりましたが、
交通ルールを守った安全運転の大切さを痛感させられました。
皆様も運転される時は、安全運転でお願い致します(^_-)-☆

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