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ドジ男の自転車旅行

自転車の旅を写真付きで書きます。

10.ヘイテ村

2020-03-15 22:47:27 | Myanmar ミャンマー
2020年1月26日(日)晴れ

朝5時に真っ暗な場所でバスを降りました。バイクが4台待っていて、後部座席に乗ってヘイテの家まで走りましたが、ダウンを着ても寒かった。
家の1階に机と椅子があり、明るくなるまで椅子に座っていました。バイクに乗せてくれたのはヘイテさんの弟や従兄弟だそうで、同じスペースで座っていました。暗い中、お菓子を持って来て机に置かれました。黒い色の物体に砂糖をかけた物で食べてみると餅でした。暖かくて美味しかった!もう一つの皿にはナッツとお茶の葉に油をかけた物でその後、お茶請けとして何度もこれを見掛けました。
 

空が少しづつ明るくなる頃(6:20)バイクに乗った行商の人が来て頭に懐中電灯を縛って商品を照らしていました。


ヘイテさんが「散歩しよう」と言うので、先ず隣りの家を覗きました。大きなトラクターがありましたが、牛の餌を作る粉砕機がありました。
 

叔父さんの家だそうです。牛が居ました。農耕馬かな?と思いながら叔父さんの家を出ると牛車が通り過ぎました。牛は牛車として使われる様です。
 

その後も何台も牛車が通りました。朝靄の中を天秤を担いだ人がやってきます。黄色いプラスチックの容器に水を入れて運ぶ人が続きます。
 

 

水汲みの人達が出てくる場所まで行くと大きい井戸がありました。飲み水はタンクで購入し、洗濯や料理などにはこの水を使っている様です。


元の道に戻ってしばらく歩いていると牛車が通りかかったので、ヘイテさんがお願いして乗せてもらうことになりました。牛車って京都のお祭りなどで見たことはありましたが、乗る経験なんて初めてです。車輪と台車にクッションが全く無いので石ころに乗り上げる衝撃が直接尻に伝わってきます。乗っているのも楽ではないなあ・・というのが乗車感想です。
 

牛車を降りた先にはヘイテ村の標識がありました。メイン道路から村に入る側にはヘイテ村の詳細が書いてあるそうです。ミャンマー語は全く読めませんが、人口が193名と書いてあると聞いたので確認してみると、確かに上から3行目の右にはミャンマー数字で193と書いてありました。他に、戸数は165戸、牛は321頭などと書かれているそうです。
 

現地でmaps.meに登録したポイントを帰国後googlemapの航空写真と比較したところ、バガンの町ニャンウーウから東北東に約64Km、緯度経度を調べると21°21'51.5"N 95°24'05.7"Eでした。バスはミンジャンの町を経由して走るのでバガン手前約72Kmということが分かりました。


村の標識から道路を東へ100mほど行った場所にヘイテさんの家の玉葱畑があります。水はエンジンポンプを使いビニールパイプで灌漑していました。玉葱畑のあぜ道にはオクラ、トマトなどの苗が育っていました。玉葱は出荷用、オクラなどの野菜は自家用のようです。
 

 

玉葱畑の道路の反対側にはタバコ畑があり、10センチくらいに育っていました。車道へ歩いて戻る時、ヘイテさんは「足元に注意して!」と言います。路肩には合歓の木の葉に似た葉の植物が自生していますが、鋭い棘があり、サンダルで踏みつけるとスポンジを突き抜けて足に突き刺さります。一度間違えて踏んでしまうと絡まって棘いっぱいの枝から抜けられなくなってしまう恐ろしい雑草でした。
 

ヘイテさんの家に戻る途中、山羊を放牧している人が居たので見に行きました。草を食べながらどんどん移動していました。


棘のある雑草に気を付けながら、今度は道路の左の家へヘイテさんは我々を案内してくれました。ヤシの葉で屋根を葺いた家で涼しいそうです。
 

ヤシの木はヘイテ村周辺には自生しています。葉の部分は屋根に使い、葉の根元の太い部分は垣根や水を運ぶ天秤棒として利用されていました。
 

散歩からヘイテさんの家に戻ると、隣りの叔父さん宅の庭ではヒマワリの種を干していました。斜め向かいの家の庭で女性がワイワイ楽しそうに話しながら玉葱の葉と実を切り分けていました。カマを木の道具に固定して両手で玉葱を持ってカマの刃に当ててカットします。直径4~5センチの小さい玉葱で表面は紫色です。
 

玉葱の家から「お茶とお菓子を食べて行ってくれ」と誘われて玉葱入りのナッツ+野菜のお茶請けを食べ、子供達も入れて記念写真を撮りました。
 

お茶を飲みながら葉巻タバコの話をしていると、「4軒先に葉巻タバコを作っている家があるから見るといい」とその家に連れて行ってくれました。葉巻の製造工程を見せてくれた女性は「日本へ行って働きたい」と言われていました。
 

可愛い子ヤギが日光浴をしていました。ヘイテ家は50頭ほどの山羊を飼っています。抱かせてもらいましたが、本当に可愛いです。
 

到着した時は真っ暗だったのでヘイテさんの家が見えませんでしたが、散歩から帰ると木造の彼の実家の家が良く見えます。家は新しくありませんが、トイレはコンクリート製の小屋となっており、便器も新しい陶器製です。
 

ヘイテ村は昨年電気が来たそうです。でもヘイテ家はまだ電灯線を引き入れていませんでした。スマホを重電する為に隣りの叔父さんの家のコンセントを借りました。電柱は1年前に建ったばかりだからピカピカです。


ヘイテ宅での昼食はもちろんミャンマーカレーでしたが、豚、鳥、カリフラワーは何れも油が少なくて美味しい味でした。食べ終わるとデザートにブドウとコーンとお茶受けにも出た定番の肴です。ナッツと野菜とゴマが一般的な様です。
 

昼食後、ヘイテさんはホテルの予約に町へ行くと言い出しました。彼の家の2階には3人分の布団や蚊帳が準備してあり、村役場に日本人を泊めると届け出たが、その上の行政区から「外国人を泊めてはならない」と指示があったそうです。昨年はヤンゴンで2軒の民家に泊めて頂きましたが、ヘイテ村では外人の宿泊が厳しいようです。


4台のバイクにまたがって村から町へ走りましたが、その途中のお寺に立ち寄りました。田舎ですが随分立派なお寺です。
 

 

 

お寺奥にお坊さんが居て、「ここではお布施をするのがいい」とヘイテさんが言うので1000チャットを出すと、何かを書いた紙をくれました。ご利益でもあるのかな?
 

お寺を出て、町にあるホテルを3軒訪問しました。2軒のホテルは1人10ドルでした。3軒目のホオテルは10,000チャットにしてくれたので、その「EMPEROR」ホテルに泊まることにして料金を前払いしました。道路から外れているし、wifiも無く、誰も泊まっていない、昔は栄えたホテルの様ですが、最近は殆ど泊り客がいない様でした。シャワーはお湯ではないけど、お湯を朝用意してくれるそうです。


ヤシの木の様な木の幹に傷を付けると、ゴムの木がゴムの樹液を出す様にお酒が出てくるとヘイテさんが説明していましたが、ホテルからヘイテ村に帰る途中、(午後3時過ぎ)酒を提供する小屋へ皆で行きました。今は樹液が採れる時期では無いので、その木を見ることは出来ませんでしたが、バイクを運転してくれたヘイテさんの弟や従兄弟4人とヘイテさんを含む我々4人の合計8人で酒を飲みました。飲酒運転を取り締まることは無いそうです。お酒は透明ではありますが、ほんの少し白濁しておりアルコール度数は20%を超えていそうです。ウィスキーの空き瓶に詰めてあります。私は水で割って飲みましたが、皆は原酒をそのまま飲んでいました。肴も出してもらい、4本飲み。土産に1本持帰りましたが、料金は8000チャットでした。ミャンマービールが2000チャット程度だから随分安いお酒です。酒を飲みかわしながらヘイテさんの世話をしてくれるバイクの運転手のことを聞きました。ヘイテさんは28歳、弟は26歳。従兄弟は1番若い人が21歳だそうです。
 

 

ここのトイレも昨年泊まったヤンゴンのエイさんの家のトイレと同じ下が見える和式でした。写真は酒の小屋で出された肴です。
 

ホテルの予約から村に戻ると、玉葱の家の前の家の人が夕食前のお菓子を提供してくれました。村中がヘイテさんの親戚の様で、日本人が来るのは珍しく、接待してくれる様です。
 

 

山脇氏はまだ若いから家の裏で冷たい水で行水しましたが、もう気温が下がって寒かったので、私は行水をしませんでした。家の横が台所です。
 

夕方の6時過ぎにヘイテ宅でミャンマーカレーの夕食を頂きました。
 

夕食後、4台のバイクで町のホテルまで送って頂きましたが、カラオケに寄ってから行こうという事になり、出かけました。1時間5000チャットの女性を3人入ってもらったのですが、ミャンマー語の歌ばかり音量maxでガンガン鳴り楽しんだのはバイクの運転手だけ。ヘイテさんの弟のバイクで先にホテルへ行きましたが、私が居なくなってから悪酔いした従兄弟達が殴り合いのケンカをして、ヘイテさんが運転して酔った従兄弟を乗せてきたそうです。
ミャンマーの田舎の村を楽しんだ一日でした。

11.ヘイテ村の2日目

2020-03-15 22:45:28 | Myanmar ミャンマー
2020年1月27日(月)晴れ 13~30.7℃

エンペラーホテルのシャワーは温水ではありませんが、朝6時に起きてシャワーを浴びるから、その時にお湯を用意して欲しいとヘイテさんがホテルの従業員に要求していました。朝4時にドアをノックされて従業員が大きい桶にお湯を持ってきてくれました。大きいバケツにシャワーの水を入れて桶のお湯と混ぜて程よい水温にしてくれました。ちょっと時間は早すぎたけど、2日ぶりの行水でサッパリしました。
6時過ぎにヘイテの従兄弟達がホテルに迎えに来てくれる約束でしたが、昨日のカラオケで飲み過ぎたのか?喧嘩の後の気まずさが有ったのか?8時にやっと来てくれました。ヘイテ宅に着くと前の日の未明に食べたお餅と自家製のポテトチップが用意されていました。
 

舗装された公道から南に伸びるヘイテ村のメイン道路を南に歩いて、9時に叔父さん宅を訪問しました。村の殆ど全ての家は木造に高床式住居ですが、珍しくコンクリートの家です。4年前に建てたそうです。室内に冷蔵庫があり、随分近代的な家でした。優しそうな叔母さんが「次に来る時には家に泊まってくれ!と言ってくれます。その代わり日本へ行くことがあったらホテルを手配するか、家に泊めて欲しい」と言われました。日本の「眼鏡はいいね」と言われて気付きましたが、この村で眼鏡を掛けた人は見かけません。ヘイテさんはヤンゴンで働いていて、実家に里帰りするのは3年ぶりだそうですが、日本人を連れてくるという噂が広がり、親戚の人は日本に関心があるので、日本人を連れて来て欲しいと頼まれていた様です。
 

新築の叔父さんの家を出て、斜め向かいの葉タバコの叔母さん宅へ行きました。庭の左に住まいがあり、突き当りの作業小屋では葉巻タバコの製造作業をしていました。お茶菓子を食べ、お喋りしながらの作業で何だか楽しそうです。
 



住居のテーブルにコーヒーとお菓子が用意されており、ヘイテさんの言わせると「お腹が減っていなくても少しでいいから食べて飲むのが礼儀」だそうです。お菓子とお茶でお腹がいっぱいでしたが、勧められるまま食べました。テーブルの後ろには寝具と蚊帳があり、ここで寝ている様です。
お守りの大きいフクロウがポリ袋に入ったまま吊ってあります。
 

部屋の対角線上の隅にも人が寝るスペースとなっていました。2階で寝ないで1階で鳴るのかな?寝る場所にも、ベンチにも竹で編んだマットが敷いてあり、座り心地もいい。
 

お菓子を食べているテーブルから作業小屋の方向の入り口には竹で作ったデッキチチェアーがあり、そよ風に吹かれてチェアーに座っているとまるで極楽!素焼きの水瓶には冷たい飲み水があり、コンクリートの家より気候に合った高床式の建物の方がエコで快適に思えます。


葉タバコの叔母さんの家を出て、村の南の端を回ってお寺に向かいました。お寺の手前の右側に、村の水源の池があります。この水が無くなれば生きていけないよね?とヘイテさんに聞くと、渇水で水が無くなりそうになると新聞に記事が出て、水を寄付してもらえるのだそうです。
ヘイテのご両親が山羊を放牧しており、池の土手にあるポンプ小屋をチェックされていました。朝の水汲みの行列もありますが、ポンプで水源の水を家庭に引いている家もあるようです。昨日、山脇氏が行水した時、井戸水でなく、蛇口のコックを捻って水をタンクに入れていた事を思い出しました。


村のお寺は500年前に建てられたそうです。お寺に寄進する時、お坊さんに渡したお金(お坊さんが持つ)に全員が手を添えて、お坊さんが言う言葉を何度か繰り返し復唱しました。お坊さんに歳を聞かれたり、歓談して蒸し芋を頂いたり、お供え物の土産まで頂きました。生活の中にお寺が溶け込んでいる様です。
 

高台のお寺から坂を下ってヘイテ村に戻る為に歩いていると、葉タバコを作っている家の人達が手を振るので、行く予定ではありませんでしたが、家の敷地に入って行きました。70歳の叔父さんもヘイテさんと繋がりがあるそうです。
 

葉巻タバコを作っている人が作る工程を説明してくれました。
 

先ず、歯を大きいハサミで所定のサイズにカットします。次に葉にフィルターを乗せ、刻んだタバコの葉を入れて巻いて行きます。
 

葉巻のラベルに糊を付けて巻いた葉タバコに巻き付けます。先端部分に切り込みを入れて鉄の棒で刻んだタバコを押し込み、先端を内側に折り曲げて完成です。
 

賑やかな女性達と記念写真を撮りました。


3軒目の葉タバコ生産の家からヘイテ宅に戻る為に歩いていると、昨日訪問した1軒目の葉タバコの家の人が着いてきて「昨日は化粧してなかったけど、今日は綺麗にタナカを塗ったから写真を撮りにきて欲しい」と家まで連れて行かれました。


次は玉葱の家の4軒前の北側の家を訪問。ここで出された細いチュロスを揚げた様なお菓子は食べると止められなくなる美味しさでした。
 

次に訪問する裏の家の人が迎えに来てくれて、連れて行かれてまたお茶とお菓子。村にはお年寄りばかりだと思っていましたが、若い娘達が集まっていました。
 

昼食はヘイテさんの隣りの牛の叔父さんの家で頂きました。ヘイテさんの家だけでなくて、村中で我々を歓迎してくれている様に感じました。
撮った写真を後になってチェックしてみると、殆ど全員が笑顔です。日本ではリタイアした亭主が居ると奥さんのストレスが溜まると言われるのに、ここでは老夫婦がニコニコ仲良くて睦まじく暮らしています。
 

昼食後、午後1時にヘイテ村の小学校へ行きました。教室に入って行くと子供達が全員振り向いて両手を合わせて「ミンガラーバー」と挨拶してくれます。メインの校舎は日本人が寄贈したそうです。旧校舎は床が抜けている部分があり、早く立て替えたいがお金が無いので寄付してくれる人が現れると嬉しいと言われていました。学年毎にグループで勉強をしていました。
 

 

低学年の子供達が英語の勉強をしていました。
 

勿論、ミャンマー語の授業もあります。
 

70年前から使っている古い校舎は床だけでなく、壁も破れていい環境とは言えません。
  

職員室に入って先生達から学校の話を聞きました。生徒数は50名。校舎を寄贈された時の写真を見せて頂きました。授業は朝8時から11時15分までと12時半から15時までで、昼休みは自宅に戻って昼食を食べるそうです。話してくださったのは2軒目の葉タバコの家の叔母さんでした。
 

学校からヘイテ宅に戻り、少し休んだ後、まだ回り切っていないのでまた親戚の家へ行ってお茶とお菓子を頂きました。娘さんが抱いている子供は11ヶ月。日本の田舎はお年寄りばかりですが、子供が居るっていい。
 

その後ももう1軒を訪問しました。何処の家でも皆さんは笑顔!
 

夕方6時にヘイテ宅で夕食を食べました。食前に、前回はヘイテさんのお母さんが写っていなかったので、記念写真を撮りました。
 

夕食後はまた4台のバイクに乗せてもらってAH1に繋がる国道まで送って頂き、ヤンゴン行きのバスを待ちました。星が綺麗に見えます。
1時間半、暗い交差点でバスを待ちましたが、我々が到着した朝もこうして何時間も待ってくれていたんだろうなあと思いました。

12.ヤンゴン(東京ゲストハウス)

2020-03-15 22:43:18 | Myanmar ミャンマー
2020年1月28日(火)晴れ

ヘイテ村からの夜行バスは朝5時10分にヤンゴンのアウンミンガラーバスターミナルに到着しました。ヘイテ村でお菓子を食べ過ぎたのかバスが停まるたびにトイレに行きました。どうやら軽い下痢が始まったようです。一緒にヘイテ村へ行った山口氏がチャイテーヨーへ行くので、ヘイテさんは彼をバスが出発する場所へ連れて行き、私と山脇氏も同行しました。5時25分にタクシーに乗ってヘイテさんのお兄さんの自動車修理工場へ行き、ヘイテ村で預かった鶏などを渡しました。昨年訪問した時には気付きませんでしたが、ここにもお守りのフクロウがありました。


環状線の電車でヤンゴン駅まで帰りますが、駅は工場のすぐ裏にあり、昨年泊めて頂いたイエッティさんの隣りの駅「Shwepyitha」でした。
 

電車のチケットはヘイテさんが買いました。英語が通じないローカルな駅でチケットを購入するのはミャンマー語を知らない日本人には難易度が高いです。通訳で案内人のヘイテさんが居るからこそ出来る旅だとつくづく思いました。


電車は日本で使われていた車両です。ドアは開けたまま走ります。6時45分に来た電車に乗り、ヤンゴンへは1時間以上かかりました。


ヤンゴン駅でトイレを捜してから、バゴー行きのチケットを購入するのにヘイテさんに付き合って頂きました。正面でなく、駅の南側を教えられて行ってみると、線路の工事をするので、お昼の列車が無くて夕方しか無いことが分かりました。帰りの列車はもっと少なくて朝3時があるだけ!多分英語で聞いても理解出来なかっただろうと思います。バゴーから帰りはバスを選択することも出来そうですが、一人で冒険旅行する気が失せてしまいました。今夜は東京ゲストハウスを予約してありましたが、明日はバゴーの安宿に飛込みで泊まるつもりだったのでヤンゴンの宿は確保していませんでしたが、ホステル21へ行けば何とかなるので、バゴー行きが断念してヤンゴンで暇つぶしすることに決めました。

ヤンゴン駅からヘイテさん、山脇氏と私の3人が歩き、9時過ぎに東京ゲストハウスに着きました。ヘイテさんが働いていたホテルだから、当時の仕事仲間やオーナーが迎えてくれました。エアコンの部屋代は8ドル、ベッドに蚊帳が吊ってあります。日本食の朝食付きで温水シャワー・トイレは共用です。
 

下痢気味で体調が悪かったので、持って来ていた正露丸を飲み、シャツなどを洗濯してホテル内で休みました。
お昼は、お腹に優しいオノンカオスエを食べました。


バゴー行きを中止したので、明日からの2日間はホステル21に泊まる事にしたので夕方6時にホステル21へ行って宿泊の予約をしました。
それに合わせてヘイテさん、山脇氏とナカさんの合計4人が集合し、ナイトマーケットへワッタドゥードゥーという串を食べに行きました。
豚のホルモンで1本が50チャット(4円)の超安いミャンマー市民の食べ物です。
 

治りそうな下痢が心配だったので、その後3人が中華を食べに行きましたが、お別れしてホテルに戻り、早く寝ました。

13.ヤンゴン(中華街)

2020-03-15 22:41:49 | Myanmar ミャンマー
2020年1月29日(水)晴れ

東京ゲストハウスには南京虫が居るかも知れないと聞いていたので、ヒヤヒヤしましたが虫刺されが無く、下痢も朝には治っていました。
8時から朝食と聞いたので8時5分に食堂へ行ってみましたが、まだ出来ていません。「少し待って!」と日本語で言われて食卓で待ちました。
食堂には絵が多く飾ってあり、なかなかの出来栄えでした。
 



朝食は約束された日本食でした。ご飯はお代わり出来ましたが、量は多く無くてお腹に優しいと感じました。


漠然とした予定で、今日は「バゴーへ行こう」と決めていましたが、鉄道工事で運行が少なくなっていたのでバゴー行きを中止したので、東京ゲストハウスでのんびりFacebookに投稿するなどしてチェックアウトまでの時間を過ごしました。昼前にチェックアウトしてホステル21へ移動しました。初めてミャンマーを旅した5年前はスーレーパヤーのバス停にはボロボロのバスが窓もドアも開けていたのを覚えていますが、今では殆どエアコン付きのバスです。(エアコン無しのバスも10台に1台くらいはまだあるようですが)
 

町を歩いている人の服装はロンジーが多いです。
 

ホステル21にチェクインしました。顔見知りのオーナーの妹さんが暖かく迎えてくれるので、自宅に帰った様な安心感があります。
この宿が気に入ってナカさんが引越ししてきていました。昼食を一緒に食べようと誘われて日本の味のカレーを食べました。
カツカレーは4000チャットにサービス料が5%プラスされます。ビルマカレーが3000チャットで食べれるから割高ですが、腹を壊している時には日本食もいいかな?
 

スマイルカレーでナカさんと別れて中華街の西にあるシュエパズンの本店まで行って土産のクッキーを買って帰りました。
露天商の果物も美味しそうに見えます。小さなリンゴのようなフルーツの価格を尋ねると1500チャットと言われたけど、外人と思って高く言うのだと思います。次の店では500チャットだから買いました。ついでに外郎のようなお菓子も400チャットで購入。元気になると何でも欲しくなってしまいます。
 

夜はナイトマーケットへ行ってドリアンを捜してみました。2軒の店が出ていましたが、割って売らずに1個だけの商売です。小さい物で30000チャットと言われたけど、一人で食べるには多すぎるので諦めました。


馴染みの中華の店で焼飯を食べ、たこ焼き風ウズラの卵(5個で500チャット)を食べました。
 

14.ヤンゴン(市内観光)

2020-03-15 22:40:18 | Myanmar ミャンマー
2020年1月30日(木)晴れ

体調がすっかり良くなったので、宿からスーレーパヤーを中心に反時計回りに歩いてヤンゴンの名所を巡ることにしました。
ホステル21の前の道Bo Ywe Rdを北に向かって歩いているとホステルの隣りの学校に登校する富裕層?の子供を乗せたサイカーとすれ違いました。タクシーが駐車してあります。運転手がこの通りに住んでいるのかも?ヤンゴンのタクシーはセダンタイプでなくて5年前に来た時からずっとこの形(ライトバン)です。
 

スーレーパヤーへの道「Maha Bandoola Rd」の角に檳榔を作っている屋台が出ていました。町のあらゆる所にこの店があります。


スーレー方面に向かって通勤の人がお弁当を持って歩いて行きます。中華街からインド人街に入ると金を売る店が多くなります。
 

道路工事と言うより、側溝の泥を取っている場所がアチコチにあります。乾季の今水はけを良くしておこうとしている?
 

ダウンタウンの中心スーレーパゴダとその南側に広がるMaha Bandoola Gardenです。
 

公園から見たCity Hall(市庁)です。これは5年前と同じです。


南へ下がってヤンゴン市文化遺産を捜してみました。
 

Myanmar Economic Bankは以前の姿を留めていますが、Yangon Division Office Complexは新しいホテルに生まれ変わっていました。
 

Custom HouseとYangon Division Courtは昔のままです。
 

The StrandHotelは外観的には同じ形でしたが、リニュウーアルして建て替えられていました。Central Post Officeは昔のままでした。
 

川沿いの道Strand Rdから東京ゲストハウスがあるBo Aung Kyaw Stを北に進むと旧大臣事務所がありますが、全面工事中で立ち入りが禁止されていました。ここが変わるとヤンゴンの町も随分変わるのだろうなあと思います。


町中を歩いていると高層ビルの高い階からロープを袋又はクリップが吊り下げられていて、丁度、目の高さだからぶつかりそうになることがあります。エレベーターが無いので新聞や手紙などの配達に階段を登るのが大変なので紐で吊り上げる様です。


また、仏教国だから、町を歩いていて托鉢のお坊さんを見掛ける事が度々あります。ピンクの袈裟は女性のお坊さんだそうです。仏教国ではありますが、ムスリムのモスクもあるし、ヤンゴン市内にはとても立派なSt.Mary's Cathedralもあります。
 

若い人のタナカは薄く塗ってあったり、素敵なデザインにする人も稀に居ますが、お年寄りのタナカは厚く塗る人が居てギョッと思うこともあります。


セントメアリー教会からボジョーアウンサン通りを西へ進むとサクラタワーがあります。その対角は大規模開発中でこれが出来上がると町がもっと近代化すると思います。
 

更に西へ進むとボジョーアウンサンマーケットがありますが、道路を挟んだ南側にジャンクションシティーのショッピングモールがあります。
サクラタワーから歩いて来た場合はエスカレーターで2階に上がり、このゲートでセキュリティーチェックを受けて入るとエアコンが効いた近代的な環境が待ってくれています。


 

ミャンマーではトイレが和式であったり、紙が無くて水だけで日本人には落ち着いて利用しづらいですが、このモールのトイレは、温水便座はありませんが、洋式便器が設置してあり、トイレットペーパーだけでなくてペーパータオルも完備した安心できるトイレです。
 

トイレットペーパーを使った事が無いミャンマー人用に使用方法が詳細に記載してありました。


中国の武漢においてコロナウィルスによる肺炎が発生しているというニュースはぼんやり知っていましたが、ミャンマーに来てからマスクをした人を見たことがありませんでしたが、中国人らしい数人が同じ青い色のマスクをして歩いていたので、気味悪くてすれ違う時は一瞬息を止めました。


ヤンゴンの市内は歩道と車道の段差が高く、デコボコして歩きづらいのですが、このモールは床がピカピカに磨かれフラットです。お洒落な店、スーパーマーケット、レストランが入っているのでリラックス出来ます。
 

市内散策をして昼時になったので軽くシャンヌードルを食べようと肉饅屋KINGへ行きました。以前、日本語学校の生徒と一緒に食べた店でしたが、一人で入るのは初めてです。隣りの人が食べていたので指差してオーダーすると店員が『チケアポ?』と2回言うのを聞いて・・アッそうか、チキン・オア・ポークと肉の選択を確認しているんだと理解しました。食べ終わって『シメ』と言うと料金は1階で支払えとジェスチャーするので2階から伝票もなく降りてレジへ行きました。シャンヌードルと言うとまた『チケアポ』。ポークと答えると、その辺りの席で待てと今から食べる人と思った様だから、そうじゃなくて支払うんだとお札を出してやっと1200チャットを支払う事が出来た。たった1杯の麺を食べるのも簡単では無い。


夕飯はナカさんとナイトマーケットの馴染みの中華へ行って焼飯、空心菜、鶏肉の揚げ物を食べました。食事代は2人分で6500チャットでしたが、その後フラリと立ち寄った「エンペラー」というキャバレー?は僅か30分くらいしか居なくてビールを飲んだだけなのに日本語を話せる若い女性をベンチに呼んだので氏名料とチップと飲み物で43000チャット!ドリアン食べた方が良かった。
 

この日の夜11時頃、別のホテルに泊まっていた山脇氏から電話があり、「ドミトリーの上のベッドに寝ていた50歳くらいの日本人が急死したのでホテルが閉鎖されることになった。追い出されるから、ホステル21で泊まれるか?」と言ってきた。急いで宿の主人に「急遽、今から泊まれるか?」打診して了解を得て山脇氏と山口氏を持った。暫くして、閉鎖される今のホテルが代替のホテルを用意してくれたので、キャンセルすると連絡があり、また主人にキャンセルを伝えるなど、ドタバタした。死因は心臓発作らしかった。思わぬ事が起こるものだ。でもヤンゴンは4回目だから何が起こっても対応できる。