地蔵菩薩の真言は
「おんかかびさんまえいそわか」
といいます。
このような真言は四国を回っているときに
たっぷりと唱えましたね。
地蔵菩薩の真言の中の「かかか」というのは
笑い声のようなものですね。
踏まれても踏まれても人々に
喜びを与えるということで
こんな真言になっています。
ああ、doironが5番目の地蔵に参った後で
よろこびの電話が新聞社から
あったというのも、地蔵菩薩が
与えてくれた喜びだったんでしょうねえ。
このあたりには大きな立派な
桜の古木がかつてそびえていたそうで、
昔は桜茶屋といわれていたそうです。
いまはさみしい感じがしますね。
その桜坂から今度はかろうじて
自動車も走れるような道ですが、
かなり急な傾斜がまた続きます。
とはいえ先ほどまで登ってきた
急さではありません。
体とゆっくり相談しながら歩いてゆきます。
もうここから耳に入って来るのは、
鳥の声と風の音、そして自分の足音だけです。
また竹林は風に打たれる竹同士が
ぶつかってカランカランと音を立てています。
昔もここまで来たら
高野も近づいてきたぞと
喜びながら歩いたんでしょうねえ。
のんびりと少し頑張って
そんな道を上がってゆくと、
ん?なんか地面に大きな岩が
転がっていますよ。
「黒岩」といわれている大石です。
その横には案内が立っています。
ここが日本で最後の仇討の場と
書かれてありますねえ。
ふ~んと思いつつも、
あれ?熊野古道を歩いているときも、
そんな日本最後の仇討ちの場がありましたね。
大阪と和歌山の境目のところに架かる
「境橋」のところです。
でもあれは、江戸時代の最後
のころでしたねえ。
ここはもう明治4年になってからの
ことですから、この二か所だけを見たら
「日本で最後の」とつけるんなら、
高野街道の方なんでしょうね。
仇討ち禁止令が出たのは明治6年。
なので日本中探せば、
ほかにも最後の仇討という名前を
付けているところはあるかもしれませんが、
まあそれはそれでいいんじゃないですか
ってことですね。
そしてここから車が通るのも
怖そうな山道を400mほど登ってゆくと、
先ほどの仇討の場で打たれた人の
墓が残っていました。
いやあこれは墓参りも大変ですねえ。
車できても、冬だったら
運転も危うく命がけになりますよね。
ちなみにこの仇討をやった人は
自首したそうですが、
西郷隆盛の尽力で無罪放免になったそうです。
さあもうかなり登ってきましたよ。
地図によるとこの先に女人堂迄
あと1里の道標石があるはずです。
ここまで来ると、何組か歩いている
人たちに出会いますね。
時間もお昼ですから、
ぼちぼち昼食にしましょう。
すると、前方に道標が何本か見えてきました。
4本立っています。
左から1本目がこの今歩いている
京大坂道の案内石ですね。
そう、この道は世界遺産なのであります。
そして二本目が女人堂迄
あと1里と書かれています。
これが西高野街道にすべて残る
13本の道標石の最後の石ですね。
あと4kmかあ。
まあよく歩きましたね。
歩く途中にもいろいろ思いでがあります。
堺から一緒に歩いた前の職場の
友達との歩きも楽しかったですねえ。
山友達とも歩いた街道も
とても楽しかったです。
もしかして高野へ歩いてゆくというのは、
目的はすべて高野にあるというのではなく、
こうして向かっていく途中の
友達との交流なんかが、
実はとっても大切なことなのかもしれないなあと、
しみじみ思い始めたdoironだったのでした。
続く
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