宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

愛嶽山のダキニ天

2007-10-27 | Weblog


愛嶽山のダキニ天

先日の例会で訪れた愛嶽山頂には愛嶽神社がある。
明治以前には「飯綱大権現」社であったことが
残された鳥居の扁額からわかる。
また、『筑前国風土記』では伊豆奈権現を祭るとされ、
「天竺の神茶吉尼と称す。魔術を好む者この神を
たうとふといふ」とされる。

現在では、社は石の宝殿となっており、
その中に素焼き製?の牛に乗ったご神像が祀られ


その宝殿の左前に天狗の姿をした「飯縄権現」が、


右には「役行者」の小さな石像が置かれている。
この2体は花崗岩製の近年の作で古いものではない。

飯綱権現=茶吉尼天はある時期に稲荷神と結びつき、
国内では狐に跨った天女像などがスタンダードな形ようである。
だから愛嶽神社境内には赤い鳥居も建てられている。
現在の祭神(軻遇土神=火の神)のご神像はここが
牛馬信仰の霊場となっていたことから
(火の神としてはちょっと妙だが)
この像様で収められているものと考えられる。

もとの御祭神は宝殿の外に出されたといえ
飯縄権現が役行者とともに現存しており、
修験の山宝満山の一角らしい風景となっている。

なぜか・・・

飯縄権現は狐に乗った鳥の神像であらわされることが多く
本来は古い天狗像の形式であったらしい。
また、飯縄権現の霊場としては熊野本宮、大和布留、
信濃戸隠、日光、筥崎八幡など天台系修験の係わりの強い
場所が有名である。
(飯綱権現の由来は戸隠連峰の修験霊場の「飯綱山」)


ダキニ天はチベットにおいては烏や鷲、梟の
頭を持つ姿として表されることがあるという。
インドでは殺戮の女神カーリーの侍女といわれる悪鬼の一種で、
生きた人間の肝や肉を食べていたがブッタの教えにより
死んだ人間のものだけを食べるようになる。
そして同時に、誰がいつどこで死ぬかを
予言できる能力を身につけたとされている。
ジャッカルがそのモデルとされており、
日本における狐の姿がこの部分でつながる。

また、ダキニ天は式神として妖術的な側面を持ち、
四天女子、八大童子、二式神を眷属として
不思議をおこす神としても重宝されたという。
天台では三井寺園城寺の修法(ダキニ一字咒王経)が知られ、
邪教とされる真言立川流の祭神の一つともされ、
正邪両極端な扱いを受けた稀な祭神であることがわかる。

山深い霊場で獣の形に身を窶した神。
そしてマジカルな力で弱きも救う神。
まさに近世修験道が大衆に浸透して
命脈を保持した姿そのもののような神。

その妖しさはいかにも民衆の好みそうな神ではないか!

愛嶽神社も明治期の神社整理(統合)令により
祭神が変更されたのであろうが、
やはりその背景には修験道色の払拭が
命題とされていたのではなかろうか?
火の神である軻遇土神がなぜ選ばれたのか?

「かまどに対する火では?」(例会参加者の言)
うーん、なるほど!

参考
「太宰府市史民俗資料編」 太宰府市
「修験道修行入門」 羽田守快 原書房
http://chaichai.campur.com/index.html

写真
例会にご参加いただいた研究会会員様よりのご提供

宝満山略史

2007-10-25 | Weblog
いまさらながら・・・
例会を重ねるたびに
一度はちゃんとした山の歴史をと思いつつ
今日までなにもいたしておりませんでしたが・・・

その準備も兼ねてランダムになりますが、
小出しにメモを残してみたいと思います。

宝満山略史(平安~鎌倉時代)

神社史としての宝満山
848年(承和7年) 太宰府竈門神に従五位上を授く(続日本後記)
850年(嘉祥3年) 太宰府竈門神に正五位上を授く(文徳実録)
859年(貞観元年) 太宰府竈門神に従四位下を授く(三代実録)
879年(元慶3年) 太宰府竈門神に従四位上を授く(三代実録)
896年(寛平8年) 太宰府竈門神に正四位上を授く(日本略記)
1105年(長治2年) 太宰府竈門宮上宮焼亡す(中右記ほか)
1155年(久寿2年) 太宰府竈門宮焼亡す(台記)
1160年(永暦元年) 都で延暦寺僧徒日吉神社の輿を報じ竈門宮・大山寺につき強訴す
(百錬抄)

寺院史としての宝満山
803年(延暦22年)最澄が太宰府竈門山寺に薬師仏を造る(扶桑略記ほか)
847年(承和14年)天台僧円仁が入唐に際し大山寺に参籠す(入唐求法巡礼行記)
933年(承平3年) 沙弥證覚が太宰府竈門山に宝塔(安西塔)を造立す(石清水文書之二)
1003年(長保5年)大山寺僧景雲阿闍梨が皇慶らに両部大法を授く(名匠略伝)
1068年(治暦4年)内山寺僧安尊が山内の争いを避け筥崎宮にて逝去(後拾遺往生伝上二)
1102年(康和4年)大宰府条坊内の宇佐八幡宮領に大山寺押妨に及ぶ(平安遺文2657号)
1104年(長治元年)延暦寺大衆の悪僧が大山寺庄園に濫妨す
1105年(長治2年)大山寺は天台の末寺とされる(中右記)
1243年(寛元元年)有智山寺衆徒争論を起こす(元亨釈書)

つづく(いつかまた・・・)

第12回例会

2007-10-20 | Weblog
第12回例会
愛嶽山・大南窟踏査


2007年10月20日に例会が実施され
30名の参加をいただき愛嶽山と大南窟の踏査を実施しました。


ルートは竈門神社を参拝して、通称「愛嶽道」を登り、
愛嶽神社、鳥越峠、大南窟、枡形城をめぐりました。
一部のメンバーは山頂へ。


愛嶽山では参加メンバーの戦国期山城の研究者から
城の構造や意義について詳細な解説が行われました。


※ ご参加された方のご意見を伺いたく、
コメントをいただければ幸いです。

事務局

大南窟

2007-10-18 | Weblog


大南窟

宝満山には古くから「七窟」という言葉があり、
山中には修行に供された石組みの窟とされる箇所が
7箇所以上に存在する。
この大南窟は筑紫野市大石側の大谷尾根道と
通称かもしか新道の間にある。
外観は縦に割れた花崗岩が屹立した形状で、
岩の根元に3畳ほどの室状の空間が開いている。


現在はこの岩室で峰入りの際の入峰灌頂がおこなわれる
修験道では重要視されている窟であり、
江戸時代の山中での回峰行においても
最南端の修法箇所として位置づけられていた。
現在では「クツ」と呼び習わしているが
江戸の絵画資料では「イハヤ」の注記もあり、
そう読むのが古い呼び方なのかも知れない。

宝満B経塚出土の経筒の銘文には「大南毘沙門堂」
と見られ、「大南」の地名は複数あったのかもしれないが
山中には12世紀以降地名として使用されているらしい。
英彦山にも同名の「大南」窟があり、
こちらは鎌倉期に成立した「彦山流記」にも記載があり
古い名称であることがわかる。
修験道段階以前の天台系山岳寺院であった頃から
この名称で呼ばれていた山中の聖地でったのであろう。

出土遺物はさらい古い。
ここでは奈良時代後期の須恵器、土師器、
製塩土器などが見られる。
宝満での山中祭祀の初期段階において
その使用が始まった古い祭祀場の一つである。
また、屹立する巨石の外観は
沖ノ島祭祀遺跡のそれを強く連想させる。
沖ノ島での祭祀が公的なものから宗像一族の
個的なものに移行していく段階であり、
その後の宝満が国境祭祀に係わった事実から
まさにその繋がりが注目されるスポットといえる。

愛嶽山

2007-10-17 | Weblog
愛嶽山


宝満本山とは鳥越峠を通じて連峰となる標高432mの山。
ピークは手前の愛嶽神社本殿のある峰とその奥の
枡形城とされる山城の占拠する峰とからなる。
「小岳」、「尾だけ」と書かれることもある。
神社の祭神は伊豆奈権現であったが、明治維新後に
軻遇土(かぐつち)神になった。火を司る神。
信仰としては牛馬安全、五穀豊穣の農耕に係わる事柄が主で
主に1月24日、7月24日に大石、本道寺、内山、北谷などから
牛を曳いて参拝することが恒例であったという。
その際に、土や砂を奉納する慣習があったらしい。
近世宝満二十五坊中の財行坊に係わる伝承として、
同坊に伊豆奈権現からの神託がり、参拝者が一握づつの土を奉納すれば
百万年後に宝満本山と同じ高さになり、望みをすべて叶えることが出来る
ようになる、という話が残されているらしい。

現在社地は竈門神社が管理している。
筑紫野市側からの参拝者が自主的に手を入れてあったらしいが、
ほんの数年の間に荒れてしまった。

参考文献
『太宰府市史民俗資料編』1997太宰府市

10月20日の例会の確認

2007-10-15 | Weblog
10月20日の例会

先に告知いたしました宝満山のフィールード・ワークにつき
下記の内容で決定いたしましたのでお知らせします。

日時;2007年10月20日 土曜日
集合;9:30 竈門神社駐車場(10:00出発、午後下山の予定)
見学場所;愛嶽(おたけ)山、鳥越峠、大南窟
もってくるもの;各自の昼食、水ほか
資料代;100円



※ 予定しておりました大石からのルートについては
 今後の中で考えたいと思います。

事務局


味わう「宝満山」

2007-10-07 | Weblog
味わう「宝満山」


まったくの箸休めに・・・

「宝満山」の名を冠した菓子があります。
太宰府天満宮の参道中ほどにある「梅園」さん。

地元では他所へのお土産に
「うその餅」とともに買われる定番の銘菓です。
卵白で立てた肌理の細かな泡に
濃厚ですっきりとした卵黄をたっぷり
すこしざらざら感を残す砂糖とであわせてあります。
素材が単純なだけに技を感じさせる一品です。

泡雪にたとえられることがありますが
もうすこし食べ応えのある存在感のある食感で
似たものはないでしょう。

甘みと食感、味わいが
お茶事の菓子としては最高の加減で仕上げられています。
お薄茶との相性はこのうえなく・・・
お好きな方はこれに梅酒を少々ひたして
お食べになるそうで
お茶事時以外にも楽しまれているようです。

最近、この定番に変化が・・・

店頭になにやら褐色の粒のはいったサンプルが・・・
聞けば生地に「大徳寺納豆」が混ぜ込まれているとか!


もともとお寺での茶事で
ご要望があるときにだけお出しされていたそうで
最近ようやく店頭にも出されたそうです。
口に含めば大徳寺納豆の侘びた風味が
また、別の菓子の味わいへと変化させています。
宝満同様に一度訪れればさらにもう一度と
妙にひとをひきつける存在感のある和菓子です。