宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山下宮礎石の建物2

2009-02-26 | Weblog

地覆の床であったことはわかりましたが、
残念ながら水平にならされた筈の
土間の地面は残っていないようです。
礎石は普通その頭が見えている程度で
床から出ているものですが、
調査では礎石が高さの半分が見える深さまで
江戸時代の遺物が入った灰色の層で覆われていて
建物が廃絶した後に床が削られてしたったようです。
しかし、その下には黄色の山から削り出してきた土が
建物の内部に敷かれていた様子が上の写真のように見られます。
これが基壇と呼ばれる建物基礎の整地にあたる部分と思われます。

宝満山下宮礎石群の建物

2009-02-24 | Weblog

現在調査中の宝満山下宮礎石群と呼ばれるこの建物
いったいどんな建物なのでしょうか?
少し整理をしておきましょう。
上の図は左側が北を向いていて
竈門神社の駐車場から階段を登った
そのままの方向に図が置かれてます。
建物の復元は礎石の配列から色々な説が出されますが、
この絵柄は太宰府市史考古資料編で採用された案です。
7間×5間の柱間で西側の1間が庇部分に想定され、
本体の部分(身舎)は4間の幅になります。
7間×4間の構造は古代でも国家仏教段階の
やや古式な様子に感じられる柱の並びです。
礎石は重厚で「柱座」と呼ばれる
柱を据える位置に円形の台が彫り出されています。

礎石ではひとつだけ特異なものがあります。
南東角から二つ目の礎石は
岩盤の大石に直接柱を据える穴が彫り込まれています。
そうしてその穴の西側は四角い溝のようなものが切り込まれ
他とは一線を画す構造になっています。
これは建物の復元にとっては大きな情報です。
柱の大きさがはっきりすることと
溝に横木がはめ込まれたと考えられることから
これは「地覆」と呼ばれる柱を根元でつなぐ部材であり、
この建物の中が土間張りであったことが理解されるのです。

第19回の例会と懇親会

2009-02-21 | Weblog

今日太宰府天満宮文華殿2階の天拝の間で
第19回の例会が行われ約20名ほどのご参加をいただきました。
テレビ西日本の尾登 憲治からは映像のプロがたどり着いた
ムービングピクチャーへの思いと動画の撮影術について
熱く、そしてわかりやすく語っていただきました。
近年の福知山でのバイオトイレの設置の取材から
宝満での同様のトイレの設置につながり、
霊峰としての宝満との出会いから
久山首羅山(白山)の発見へと
氏の興味の広がりとともに
その映像が披露されました。

その後、事務局からの竈門神社下宮での
最近の調査の現状報告と薩摩塔の話題、
本谷礎石群の保全の近況が報告されました。
最後にTNCの山岳保全に関するニュースと
カラコルムK2登山の記録映像が放映され、
はるかな山々への各人の思いが膨らんだことと思います。

夕刻は参道下の食事処で遅ればせながらの
本会の新年会(笑)が10名のご参加をいただき
にぎやかに開くことができました。
ご参加の皆様に感謝!

大宰府条坊跡の現地説明会

2009-02-19 | Weblog

今日の朝日や西日本新聞に掲載されてましたが、
西鉄二日市駅北側の操車場跡地でおこなわれている
太宰府市の発掘調査現場での現地説明会が
2月21日土曜午前10時からおこなわれます。
条坊の左郭1坊路が見事に残っている状況、
平安後期の見事な瓦積みの井戸跡、
奈良時代の官衙(古代の役所)風建物
などなど盛りだくさんです。

近くには菅原道真公の配流所だったとされる
榎社がある場所であり古代都市大宰府の中心エリアが
これだけの規模で見られることは
この先もしばらくないことでしょう。
山岳寺院を支えた都市の様子も気になるところです。

例会前の時間帯ですから
ご興味のあるかたはぜひに。

※駐車場がないようです。西鉄二日市駅から徒歩3分。

宝満山の発掘調査史2

2009-02-18 | Weblog

宝満山下宮礎石群の再調査から

その後、昭和61(1986)年から送電鉄塔建設に伴う調査を皮切りに、
民間開発を原因とする緊急発掘調査が太宰府市により継続しており、
現在まで5冊の調査報告書が刊行された。

また、平成17(2005)年より国の補助事業として山中の主要遺跡の
確認調査と遺構分布の台帳整備の事業が継続している。
現在までの市教育委員会による調査次数は37次に至る。
近年、九州歴史資料館の岡寺良が山中の近世の坊跡について
中世山城研究の手法を用いて実地調査・図化しその成果が公表された。

参考文献

小田富士雄編『宝満山の地宝』1982年太宰府顕彰会
(宝満山綜合文化調査のうち1次聞き取り、踏査、
2次調査上宮祭祀トレンチ調査、法城窟レンチ調査、下宮礎石群平板測量調査、
3次下宮礎石群トレンチ調査)
小田富士雄・武末純一「太宰府・宝満山の初期祭祀」
      『宝満山の地宝拾遺』1983年太宰府顕彰会
亀井明徳「経筒新資料について」
      『九州歴史資料館研究論集8』1982年九州歴史資料館(宝満B経塚)
小西信二編『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』1983年太宰府顕彰会
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡』1989年(市1~7次調査)
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡II』1997年(市14,16,18次調査)
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡III』2001年(市11,21次調査)
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡4』1997年(市8,9,10,12,13,15,17,19,20,22,24,25,26,27,
28,29次調査)
太宰府市教育委員会『宝満山遺跡5』1997年(市30次調査=宝満A経塚、遺跡総括)
岡寺良「宝満山近世僧坊跡の調査と検討」『九州歴史資料館研究論集33』2008年

今週土曜日2月21日は13時から太宰府天満宮文華殿天拝の間にて
本研究会の例会がおこなわれます。
夕方には天満宮近くで懇親会をおこないますので、
多くの方のご参加をお待ちしております。

日時 平成21年2月21日 土曜日 13:00~
場所 太宰府天満宮文華殿(御本殿裏)
講和 「ビデオで上手に記録するこつ」テレビ西日本 尾登 憲治さん
速報 「宝満山遺跡下宮礎石群(第37次)の発掘調査」
                太宰府市教育委員会 高橋学さん
報告 「本谷遺跡調査と保全の記録」ビデオ放映 事務局
資料代 200円

※今回は研究会終了後に懇親会を行います。
 会費は3500円前後の予定。会場は天満宮門前の
 「山菜 日和」(福岡県太宰府市宰府1丁目15-16
 tel:092-929-0626 http://air.okjj.jp/hiyori/info.html)


お申込みは管理者メール
 dazaifu2340あっとまーくmail.goo.ne.jp まで

宝満山の発掘調査史1

2009-02-15 | Weblog
ついでなので宝満山での遺跡の調査の流れについておさらいです。

宝満山の遺跡としての調査は昭和35(1960)年に太宰府天満宮が母体となって実施した宝満山綜合文化調査において、小田富士雄氏を中心とした遺跡調査部門のメンバーによる山頂上宮周辺、東院谷地区での法城窟、下宮地区での礎石群のトレンチ調査が嚆矢となった。
 その成果は昭和57(1982)年に太宰府天満宮の関連団体である太宰府顕彰会から『宝満山の地宝』として刊行された。
 その後、昭和50年代前半から太宰府天満宮文化研究所が主体となって継続的におこなった山中の遺物分布の悉皆調査があり、成果は昭和58(1983)年に調査主体者であった小西信二氏が監修し太宰府顕彰会が『宝満山及び竈門神社周辺の遺跡分布調査報告書』として公開した。
 この中に山頂の古代祭祀の舞台となった上宮周辺と最澄発願の六所宝塔の推定地である本谷礎石群、下宮礎石群の1/50の詳細図が収容されている。
 これら調査成果のエッセンスは太宰府市刊行の『太宰府市史考古資料編』で再構成され、未公開であった小西氏回収の辛野遺跡の古代の祭祀遺物などが図入りで公表されている。

※久山町の中世山岳寺院首羅山(白山)遺跡について
TNCテレビ西日本さんが18時台のニュースで続編を流されるそうです。
見られた方はご感想をお聞かせください。

宝満山の寺社史3 中世

2009-02-14 | Weblog
 中世の宝満山内における大宰府側の遺跡の様相は、山裾に広がる旧北谷村、内山村、それに挟まれた南谷、本谷地区において谷および尾根を雛壇状に造成して形成された大小の平坦面で12世紀頃を起源とし、13世紀後半から14世紀をピークとする整地、掘立柱建物、柵、石垣、石段、スロープ、庭園などが有機的につながりながら展開する様相が明らかとなっている。
 内山地区の宝満山遺跡第12次調査では護摩炉と考えられる木札(乳木か)を焼成した石組みが検出され(『遺跡だより22』1993太宰府市教育委員会)、南谷地区の4次調査では白鳳期に位置づけられる小金銅仏が出土している(『宝満山遺跡群』1989太宰府市教育委員会)。記録ではこの周辺から独鈷が出土したとされ、これら雛壇状の造成面上に形成された生活空間が前述の寺院にかかわる坊跡と推定される。近世地誌には「有智山、南谷、北谷、三所の僧舎すへて三百七十坊有しとかや」(『筑前国続風土記』貝原益軒著 江戸元禄年間編纂)と記載される。

宝満12次の石組み炉(護摩炉?)

参考;HP太宰府市文化ふれあい館 遺跡だより22号
http://dazaifu.mma.co.jp/fureai/iseki_dayori/22/

宝満山の寺社史2

2009-02-10 | Weblog

 一方で下宮および本谷地区において仏教寺院施設に比される瓦所要の礎石建物が発見されており、瓦の様式から平安期に属すものと考えられることより(下宮礎石群周辺では鴻臚館式などの奈良期の様式を含むが持込み再利用の可能性もある。現存する礎石そのものは平安期の層を基盤とする。今回の37次調査で12世紀前半以降の層の上に現在の礎石が置かれていることが判明している。)、山中での土器祭祀盛行後に寺社が形成された流れで捉えられる。
 寺院は『扶桑略記』、『叡山大師伝』における延暦22(803)年の伝教大師の薬師仏奉納に係っての記事には「竈門山寺」、承和14(847)年の入唐僧円仁の渡航記録書『入唐求法巡礼行記』に「大山寺」、『石清水文書之二』における沙弥証覚の宝塔建立の記事(933年)では「大宰府竈門山」、『後拾遺往生伝上二』の僧安尊の死亡記事(1086年)では「内山寺」の名称で登場する。
 『元亨釈書』の衆徒の争論記事(1243年)には「有智山寺」とされ、おおよそ平安前期に「竈門山寺」、平安後期に「大山寺」「内山寺」、鎌倉期以降は「有智山寺」と名称が変遷したことが読み取れる。おのおのが連続した一つの組織名か否かは学史上では解決されていない(「古代における竈門山寺の活動」1975小田富士雄『九州文化史研究紀要20』)。「大山」の読みが「だいせん」であれば音においては「内山」に通じ連関する可能性もある。下宮地区のホノケ(字の下位の小地名)に「おおやまじ」があるとも言われる(『宝満山歴史散歩』2000森弘子)。
 寺の運営にかかわっては、円仁が参籠読経した際(9世紀第2四半期)には観世音寺僧に伴われる形が採られ、独立した寺院体制が整っていない様子が伺われる。
 沙弥証覚による宝塔建立の記事(933年)に登場する塔は、延暦寺が国家鎮護・天台宗振興の戦略的モニュメントとして国内6所(近江国比叡山東塔、山城国比叡山西塔、上野国淨法寺、下野国大慈寺、豊前国宇佐弥勒寺、筑前国竈門山寺)に配置の計画がなされた塔の一つであり(『六所造宝塔願文』)、宝満における仏教寺院展開初期の段階から比叡山が深くかかわりを持っていたことが知られる。この宝塔は昨年調査された34次調査地点の礎石建物が最有力候補とされている。
 平安後期(長治2(1105)年)には大山寺別当職の補任に関し石清水八幡宮と比叡山延暦寺との間で争論となり、山内での大宰府兵士と叡山悪僧との合戦、平安京における日吉神人、叡山大衆による御所陽明門への強訴事件へと発展し、これをきっかけとし大山寺は比叡山の末寺となった。騒動の背景には1116年『観音玄義疏記』記事の「博多津唐坊大山船」や1218年『百錬抄』記事の「大山寺寄人張弘安(博多綱首)」などから同寺院が主体的におこなっていた博多を拠点とする貿易の利権が係ったものと推測される。この段階においては寺に職能で従属する神人や寄人といった人々の中に博多の華僑貿易商まで含まれている様相から、寺の規模や機構自体が巨大化していたことを示唆している。
 今回検出された下宮礎石群の成立時期は、まさにこの山が比叡山本山の末寺に位置付けられた段階に整備されたと考えられ、変革期に設置された巨大なモニュメントであったといえる。

宝満山の寺社史1

2009-02-09 | Weblog

今日も午前中の雨が降らない間
多くの方が下宮礎石群の発掘現場を
訪れていただいていたようです。
発掘はされておらず掘った箇所に
ブルーのシートが掛かっていますが
肝心の礎石群は露出していますので
見学はいつでも可能な状態です。
竈門神社の駐車場から鳥居をくぐって
本殿に上がる道すがらの右手に
竈門宮の下宮礎石群があります。

ここで少し宝満の寺社史にふれてみましょう。

 現在、太宰府市の北東、福岡平野の西を限る三郡山地の南端にある山が宝満山と呼ばれ、竈門神社上宮(山頂、標高830m)、中宮(8合目)、下宮(本社殿)が鎮座する。山の名称には歴史的には「御笠山」「竈門山」の異称もある(『筑前国続風土記』貝原益軒)。明治以前は神仏混交の修験の山として知られ、筑豊の英彦山を胎蔵界、宝満山を金剛界とする密教世界が形成されていた。竈門神社は延喜式内社、官幣小社に位置づけられた「竈門神」、「竈門宮」に連なるものとされ、『続日本後記』九仁明天皇承和7(840)年四月条の記事が史料の初出とされる(「宝満山玉依姫考」2004森弘子『日本宗教文化史研究』15)。山頂および山中の山頂を仰ぎ見る位置で8世紀後半から9世紀にかけての時期に土器を用いた祭祀行為の痕跡が複数箇所で見つかっている「古代の祭祀と信仰 宝満山祭祀遺跡群」1992年小西信二『太宰府市史考古資料編』太宰府市)。山頂の上宮地区においては皇朝銭、施釉陶器(三彩、二彩、緑釉、灰釉)、銅製儀鏡、土師器、須恵器、墨書土器などがあり、西斜面の辛野遺跡においては「蕃」銘を含む墨書土器が出土し、この山内での祭祀が大宰府による国境祭祀的背景を示唆する様相を呈している。

(つづく)



宝満山遺跡の現地説明会開催さる

2009-02-07 | Weblog

本日、宝満山遺跡第37次調査の
現地説明会開催されました。
延べで約100名の見学者が訪れ、
熱心に調査担当者の説明に
耳を傾けていました。
訪問された方は地元歴史ファンをはじめ
宝満山研究会のメンバー、地元住民、神社関係者、
学校の先生、市役所の職員さん、発掘作業員さん、
県や他市の文化財担当者、発掘会社の方々、登山客、
太宰府発見塾の塾生さん、史跡解説員の方などなど・・・

一番の驚きは1961年にこの宝満山下宮礎石群の
最初の発掘調査に参加された先輩がおられたこと。
記憶を辿られながらのお話を少し伺いました。
当時は上宮の調査がメインであって、
下宮はその合間を縫って短期に行われたようです。
(かつて小田富士雄先生の回顧でも下宮礎石群の調査は
当初には予定されておらず、先生の働きかけによって
宝満山の綜合調査事業の途中でやることになった、
とされています。)
調査の報告は太宰府顕彰会発行で小田富士雄先生ご監修の
「宝満山の地宝」に収録されています。
しかし、当時の予算や調査期間などの背景を考えると
よくぞここまで成果を残す調査をされたと
現在の調査から振り返って改めて驚かされます。