かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の短歌鑑賞 ミトコンドリア・イブの一連について

2022-05-15 12:13:56 | 短歌の鑑賞
  22年改訂版 渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
    【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
     参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放


 ※この「ミトコンドリア・イブ」の一連は話題になった問題歌で、この回では川野里子氏
  の評論【文中ではAと表記】、鶴岡善久氏の歌集評【文中ではBと表記】、坂井修一氏
  の評論【文中ではDと表記】を参考にさせていただき、それぞれから多大なご教示をい
  ただいた。お礼申し上げる。なお、川野氏の評論はご本人の承認を得てHP「川野里子
  の短歌とエッセイ」あ(http://kawano-satoko.com/ja/173/)から引用させていただ
  いた。
  また、「かりん」掲載の鹿取の評論【文中ではCと表記】を引用。さらに、会員のK・
  Oさんの紙上参加の文章【文中ではEと表記】も掲載した。
  ただしAは「ミトコンドリア・イブ」一連に焦点を当てた論、Bは『泡宇宙の蛙』の歌
  集評で「ミトコンドリア・イブ」の占める位置は小さく、Dは「汎生命と人間」という
  観点から「ミトコンドリア・イブ」の一首に触れており、Cは「渡辺松男の死の歌」が
  テーマで、死の観点から「ミトコンドリア・イブ」一連にも触れている。このようにそ
  れぞれの書き手によってスタンスの違いがあることをお断りしておく。

  A 川野里子 〈おばあちゃん〉を連れて——渡辺松男と現代
                     (「かりん」1999年11月号)
  B 鶴岡善久 森、または透視と脱臼——渡辺松男歌集『泡宇宙の蛙』を読む——
          (「かりん」2000年2月号)
  C 鹿取未放 渡辺松男の〈死〉の歌—— 批評用語からこぼれるもの
     (「かりん」25周年評論特集2003年5月号)
  D 坂井修一 汎生命と人間 
             (「かりん」渡辺松男の軌跡特集2010年11月号)
        
  E K・O 紙上参加(2018年6月)

 ※A、C、Eのうち、ミトコンドリア・イブ一連全体にわたって触れているものを個々の
  歌の鑑賞に先立ってここに挙げておく。

  (A)渡辺の「ミトコンドリア・イブ」一連は近年の短歌を見慣れた者にとって強いイ
     ンパクトを持つ一連だ。モチーフにおばあちゃんを選ぶということがまず驚きで
     あるし、そのおばあちゃんの視線に自らの視線を合わせようとする試みもまず見
     当たらないものだ。しかしこれは安易な弱者への思いやりやヒューマニズムなど
     から発想されてはいない。むしろ〈おばあちゃん〉の呼びかけにこもる微かな毒
     が読み取られるべきだろう。
     (中略)この一連の〈おばあちゃん〉という呼びかけはあくまでも優しいが、なに
     か落ち 着かない気分にさせる過剰なものを含んでいる。浅薄なヒューマニティが
     感じさせるのとは全く異質な居心地の悪さである。〈おばあちゃん〉と語りかけ
     ることで閉じ込めてきた時間に触れ、過去というパンドラの箱をあえて開くよう
     なザラつき、〈おばあちゃん〉が繰り返されるたびに、〈おばあちゃん〉から生
     まれた私たちのなかに消せない時間と過去とが頭をもたげるのだ。〈おばあちゃ
     ん〉は呼びかけられるたびに無用者として田んぼの畦に居ながら私たちに痛みを
     呼び覚ますことになる。〈おばあちゃん〉は忘れられてきたゆえに奇妙に木霊
     し、乱反射しながら私達の背後を問い、忘れられた共同体を浮かび上がらせる呼
     びかけなのだ。(川野)
  (C)(……)ミトコンドリア・イブの一連は読み手の心をざらつかせる。たぶんわれ
    われが避けて通りたい、あまり正面から見たくないものを見せられるからだろう。
    ミトコンドリア・イブ一連から受けるざらつき感は、人間の実存という今では古び
    きってしまった感のあるテーマに深く根ざしているせいのように思われる。また、
    時代や戦争の影が色濃く滲んでいることにもよろう。その上、仕掛けとしての「お
    ばあちゃん」という呼びかけの、知から遠いぞんざいさが読み手のこころを妙にい
    らだたせるのだ。(鹿取)
  (D)渡辺のことばは、どの作品の中でも知的な幼児性をまとってたちあらわれる。これ
    は、いま述べた彼の自然観・人間観からしてとうぜんのことだろう。自然はほんら
    いおおらかな幼児性をもつものであり、同時にそのことは、今の人間社会にあって
    は高い知性をもって洞察しなければならないことなのだから。ある人が知性と幼児
    性をともにたかくもつことができたとしても、そのことは、その人が芸術家や文芸
    家としてすぐれた作品を生み出すことをなんら保証しないだろう。渡辺松男の多く
    の作品は、現代短歌としてもとくにすぐれたものだが、ではいったい、その根拠と
    はなんだろうか。(坂井)
  (E)「ミトコンドリア・イブ」のエピソードからインスパイアされた、物語。どこか
    子供の目が入った、話言葉から浮かびあがる思考。おばあちゃんの姿、おばあちゃ
    んと僕の姿、時間の長さ、景色の映像が見えてくるような一連です。渡辺松男さん
    にしか出せない独特のリズムは、おばあちゃんの個人史を通り越して、もっと源で
    ある、命の起源につながるところ、原初の土地の感触すら彷彿させる、独特のリズ
    ムで、物語が浮かびあがってきます。人類史の中で繰返し起こる 戦争、はここで外
    せないでしょう。(K・O)

     (追記)(2018年8月)
 「かりん」渡辺松男の軌跡特集2010年11月号において、渡辺松男自身がこの歌につ
いて発言しているので、紹介しておく。「松男さんに聞く「初期作品の頃」、聞き手は大井
学氏。
Q 『泡宇宙の蛙』においては、数々の名歌があります。ことに「ミトコンドリア・イブ」
 の一連は、生命科学の知見と相俟って、今も大きな問題を孕んだ歌として意味を持ってい
 ると 思います。「ミトコンドリア・イブ」の一連は、どのような思いで詠われたのでしょ
 うか?
A 人生のほぼ一〇〇%が過去となったとき、夢とは何であろうと思ったのです。制度的な
 ものは何の救いにもなりません。〈在る〉ということの理解不可能性の中に投げ込まれ、
 そこに独りぽつんと坐っている「おばあちゃん」に自分を重ねてみたのです。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 渡辺松男の一首鑑賞 84 | トップ | 渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌の鑑賞」カテゴリの最新記事