ブログ版 清見糺の短歌鑑賞
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
217 三枚におろさるる身をきよめんと箱根にみどりの風吸いにきつ
2003年5月作
「三枚におろさるる身」は、江國滋の句集『癌め』の次の句を下敷きにしている。
詞書きも含めて引用する。
手術中のわが身を想像して―(渡邊先生の説明によれば、腹を縦に、首の下を横に、背
中を斜めに、三カ所を切る大手術になるよし)
三枚におろされてゐるさむさかな
ちなみに作者の食道癌手術も江國滋と同じようにこの三箇所を切る大手術だった。「食道亜全摘胃管再建鏡視下術」という。この歌、下句が切ない。
218 箱根湯本で芸者している教え子をたずねあてたりとあるストアに
2003年5月作
まさに「たずねあてた」のだった。箱根に行き、芸者としての名前が分からないのでまず番所に行った。そこに貼ってあったポスターに教え子の顔があり、その住まいを聞くことができた。しかし、教えられたマンションに行っても、管理人がそんな人は住んでいないという。番所で教えられてきたからと言ってもらちがあかない。管理人から聞き出すのは諦めて、付近のスーパーを聞き回った。そうしているうちに、あるスーパーの前を本人が通りかかったのだった。髪はアップに結っているが洋装だった。清見糺の顔を見て彼女のびっくりした、しかし何とも嬉しそうな顔が忘れられない。事実そのままの歌である。下手な歌だと思う人もいるだろう。しかし、事実の重さゆえに、この歌を捨てることができなかった。なぜなら、こうして尋ね歩いた教え子はこの芸者の子だけではなかったからである。京都で修学旅行相手の旅館の女将になっている教え子にも会いにいった。溝の口のスナックの子にも会った。親に遺棄された中学生で、不登校になった生徒を毎日迎えに行って、時にラーメンなどをいっしょに食べたという教え子とも、連絡をとって新宿でいっしょに飲んだ。かつての不登校の子は、50代になっていた。癌が判明してからの作者は、こうして気がかりな教え子のひとりひとりを尋ね歩いたのである。
作者の手術は2003年の8月だったが、4月検査入院、6月抗がん剤投与のため入院、8月手術のために入院。その間は時間は自由に使うことが出来た。
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
217 三枚におろさるる身をきよめんと箱根にみどりの風吸いにきつ
2003年5月作
「三枚におろさるる身」は、江國滋の句集『癌め』の次の句を下敷きにしている。
詞書きも含めて引用する。
手術中のわが身を想像して―(渡邊先生の説明によれば、腹を縦に、首の下を横に、背
中を斜めに、三カ所を切る大手術になるよし)
三枚におろされてゐるさむさかな
ちなみに作者の食道癌手術も江國滋と同じようにこの三箇所を切る大手術だった。「食道亜全摘胃管再建鏡視下術」という。この歌、下句が切ない。
218 箱根湯本で芸者している教え子をたずねあてたりとあるストアに
2003年5月作
まさに「たずねあてた」のだった。箱根に行き、芸者としての名前が分からないのでまず番所に行った。そこに貼ってあったポスターに教え子の顔があり、その住まいを聞くことができた。しかし、教えられたマンションに行っても、管理人がそんな人は住んでいないという。番所で教えられてきたからと言ってもらちがあかない。管理人から聞き出すのは諦めて、付近のスーパーを聞き回った。そうしているうちに、あるスーパーの前を本人が通りかかったのだった。髪はアップに結っているが洋装だった。清見糺の顔を見て彼女のびっくりした、しかし何とも嬉しそうな顔が忘れられない。事実そのままの歌である。下手な歌だと思う人もいるだろう。しかし、事実の重さゆえに、この歌を捨てることができなかった。なぜなら、こうして尋ね歩いた教え子はこの芸者の子だけではなかったからである。京都で修学旅行相手の旅館の女将になっている教え子にも会いにいった。溝の口のスナックの子にも会った。親に遺棄された中学生で、不登校になった生徒を毎日迎えに行って、時にラーメンなどをいっしょに食べたという教え子とも、連絡をとって新宿でいっしょに飲んだ。かつての不登校の子は、50代になっていた。癌が判明してからの作者は、こうして気がかりな教え子のひとりひとりを尋ね歩いたのである。
作者の手術は2003年の8月だったが、4月検査入院、6月抗がん剤投与のため入院、8月手術のために入院。その間は時間は自由に使うことが出来た。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます