※4年ぶりに支部の勉強会を再開しました。
久しぶりの、リアル松男研究です。
2024年度 渡辺松男研究2の33(2024年6月実施)
Ⅳ〈白骨観〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P164~
参加者:M・A、岡東和子、鹿取未放、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
司会と記録:鹿取未放
255 草を食みわれましずかにありえしをぶつぶつと月にクレーター見ゆ
(事前意見)
馬だの牛だののように、草をはみながら静かに生きていくこともできるはずなのに、自分(人間)にはきれいなだけの月ではなくてその上の醜いクレーターが見えてしまうという酷いような愚かなような現実。作者はそのことを,静かに受け止め内省している。(菅原)
(当日発言)
★菅原さんのレポートは情緒過多のように思います。また、結論を付けすぎでは?
(M・A)
★菅原さん、きっちりとこの歌はこういうことを言いたいのだと結論を言わないとい
けないと思い込んでいるところがありそうですね。(鹿取)
★渡辺さんの作品について、いちいち結論づける必要はないですよね。「ましずかに」
の使い方が非常にうまいですね。「ありえしを」は過去だから、「できるはずなの
に」ではなく「できたはずなのに」ですね。牛や馬のようにありえたのに、それ
にもかかわらずクレーターが見えてしまうということですね。この作者は人間を
牛や馬と同列に見ることができるようですね、人間を低い次元に押さえている。
私はそういう視点でうたうことは絶対に出来ないです。生命、存在としては同列
だと思うのですが。(A・K)
★私はアイヌの文化に関心があるのですが、アイヌの人の考え方はわりと渡辺さんに
近いかもしれません。理屈ではなく、感覚として人間も他の動物も同じって思ってい
るのじゃないかな。現実的には人間が偉そうにしちゃうこともあるとは思いますが。
それに、アイヌは人間同士でも、他の生物とでも、基本的にヒエラルキーとか作らな
いのですね。そういうところがとても好きだし、やすらかです。(M・A)
★もう少し自虐的な歌もありましたね。「驢(ろ)と生まれただ水草をおもいみるまずし
さよ吾は鞭うたれいし」(154頁)(鹿取)
(後日意見)
「ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんって青虫にもある」(15頁)これが、作者が考える人間と他の生命との同質性を端的に表現した一首だろう。作者の自歌自注を抜粋しておく。(鹿取)
両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。
「かりん」2010年11月号
また、坂井修一さんは松男さんをこんなふうに評されています。
渡辺のことばは、どの作品の中でも知的な幼児性をまとってたちあらわれる。これは、今述べた彼の自然観・人間観からしてとうぜんのことだろう。自然はほんらいおおらかな幼児性をもつものであり、同時にそのことは、今の人間社会にあっては高い知性をもって洞察しなければならないことなのだから。
「汎生命と人間」(「かりん」2010年11月号)
久しぶりの、リアル松男研究です。
2024年度 渡辺松男研究2の33(2024年6月実施)
Ⅳ〈白骨観〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P164~
参加者:M・A、岡東和子、鹿取未放、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
司会と記録:鹿取未放
255 草を食みわれましずかにありえしをぶつぶつと月にクレーター見ゆ
(事前意見)
馬だの牛だののように、草をはみながら静かに生きていくこともできるはずなのに、自分(人間)にはきれいなだけの月ではなくてその上の醜いクレーターが見えてしまうという酷いような愚かなような現実。作者はそのことを,静かに受け止め内省している。(菅原)
(当日発言)
★菅原さんのレポートは情緒過多のように思います。また、結論を付けすぎでは?
(M・A)
★菅原さん、きっちりとこの歌はこういうことを言いたいのだと結論を言わないとい
けないと思い込んでいるところがありそうですね。(鹿取)
★渡辺さんの作品について、いちいち結論づける必要はないですよね。「ましずかに」
の使い方が非常にうまいですね。「ありえしを」は過去だから、「できるはずなの
に」ではなく「できたはずなのに」ですね。牛や馬のようにありえたのに、それ
にもかかわらずクレーターが見えてしまうということですね。この作者は人間を
牛や馬と同列に見ることができるようですね、人間を低い次元に押さえている。
私はそういう視点でうたうことは絶対に出来ないです。生命、存在としては同列
だと思うのですが。(A・K)
★私はアイヌの文化に関心があるのですが、アイヌの人の考え方はわりと渡辺さんに
近いかもしれません。理屈ではなく、感覚として人間も他の動物も同じって思ってい
るのじゃないかな。現実的には人間が偉そうにしちゃうこともあるとは思いますが。
それに、アイヌは人間同士でも、他の生物とでも、基本的にヒエラルキーとか作らな
いのですね。そういうところがとても好きだし、やすらかです。(M・A)
★もう少し自虐的な歌もありましたね。「驢(ろ)と生まれただ水草をおもいみるまずし
さよ吾は鞭うたれいし」(154頁)(鹿取)
(後日意見)
「ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんって青虫にもある」(15頁)これが、作者が考える人間と他の生命との同質性を端的に表現した一首だろう。作者の自歌自注を抜粋しておく。(鹿取)
両者を同列に置いたところが生の内実としての等価性をもただちに暗示してしまい、ケシカランと言いますか、ある種のタブーに触れたようです。
「かりん」2010年11月号
また、坂井修一さんは松男さんをこんなふうに評されています。
渡辺のことばは、どの作品の中でも知的な幼児性をまとってたちあらわれる。これは、今述べた彼の自然観・人間観からしてとうぜんのことだろう。自然はほんらいおおらかな幼児性をもつものであり、同時にそのことは、今の人間社会にあっては高い知性をもって洞察しなければならないことなのだから。
「汎生命と人間」(「かりん」2010年11月号)
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