知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

新日本風土記「八戸」

2018年02月03日 20時13分49秒 | ふるさと
 手元に「イタコ“中村タケ”」というCD集があります。
 彼女が唱えた祭文や口寄せ、マジナイとウラナイを収録した内容です。

 なぜそんなものを持っているかというと、私は昔から民俗学に興味があり、イタコさんも守備範囲。
 大学生時代には「民俗研究部」というマイナーな文化部に所属し、フィールドワークなんぞに参加しました。
 歴史の教科書に載らない、フツーの人々の暮らしに興味があったのです。
 核家族で祖父母の存在が稀薄だった自分のルーツを知りたいという漠然とした思いがあったように感じています。

 弘前市の久渡寺(くどじ)の「オシラ講」や恐山の大祭で、イタコさんを見たこともあります。
 あの独特の節回しを聞いていると、自分が今いる場所が日本なのか、わからなくなった記憶があります。

 先日のNHK番組「新日本風土記」は「八戸」でした。
 すべて興味深い内容でしたが、一番インパクトがあったのがイタコの中村タケさん本人が登場したこと。貴重な映像です。

 大学1年生の夏、八戸市外から離れた漁村のフィールドワークに参加しました。
 村の空き家を借りて1週間泊まり込み、古老達から話を聞いて採集し、それを本にまとめる作業。
 私の担当は「信仰」でした。
 八戸市は江戸時代、南部藩と呼ばれ、馬の産地でした。
 調査時は馬を飼っている家は見当たりませんでしたが、家の構造に厩が残り、家の中には馬頭観音が祀られていました。
 
 その日捕れた魚介類を差し入れしてくれました。
 その中でも記憶に残っているのが、バケツ一杯のツブ貝の差し入れ。
 生まれて初めてツブ貝を食べた私、そしてもう要らないと言うほどたくさんたくさん食べました。
 それ以来、ツブ貝を食べたことはありません(一生分を食べてしまった・・・)。

 八戸の「南部弁」は「津軽弁」と大きく異なります。
 津軽弁の語尾は「だっきゃ〜」ですが、南部弁のそれは「んだなす〜」です。
 フィールドワークの後、しばらく部員の間で「んだなす〜」調会話が流行りました。

■ 新日本風土記「八戸」(2018年1月19日放送)

番組内容
 青森県の港町、八戸。
 海からヤマセと呼ばれる冷たい風が吹き荒れかつては何度も飢きんに襲われる不毛の地だった。そんな八戸で人々が活路を見いだしたのが海。戦後、埋め立て工事により港は大規模な漁港へと変貌。イカは現在も水揚げ量日本一を誇る。高度経済成長期以後は北東北一の臨海工業都市に成長した。
 八戸発展の象徴がけんらん豪華な八戸三社大祭の山車だ。常に変化しながら厳しい風土を生き抜いてきたたくましき人々の物語。

詳細
 青森県の東、太平洋に面する東北屈指の港町、八戸。
 「やませ」と呼ばれる寒風が吹き荒れ、かつては何度も飢饉に襲われる不毛の地だった。
 発展のため人々が活路を見出したのは海だった。戦後、埋め立て工事により大規模な漁港へと変貌し、昭和41年から43年にかけては、3年連続で水揚げ日本一を記録。中でもよく取れるのがイカで、現在も水揚げ量日本一を誇っている。
 高度経済成長期には臨海工業地帯としても発展。北東北一の工業都市へ成長した。
 港で開かれる巨大朝市には2万人が集い、ユネスコの無形文化遺産に登録された祭りの豪華絢爛な山車は、人を呼び込み街に活気をもたらそうと、毎年、進化を続ける。
 飢餓の記憶は今も農家に受け継がれ、田に捧げる祈りが絶えることはない。常に変化しながら厳しい風土を生き抜く、たくましき人々を見つめる。

▼"やませ"と"けがじ"の民…受け継がれる飢饉の記憶と田に捧げる祈り
▼馬産地の栄光…「戸」は平安時代からの馬産地の証。その栄光を守る人々の物語
▼日本一のイカ…日本一の漁獲量を誇るイカ漁。不漁にも屈しない漁師の誇りとは
▼海に開けた夢…港の礎を築いたのは2代目の八戸市長。夢にかけた軌跡を追う。
▼自慢の山車に集まる夏…賞を競い、進化を続ける豪華絢爛な山車作りの舞台裏。
▼ホトケサマ、呼続けて…厳しい風土で人々の心に寄り添ってきたイタコの秋。
▼朝市で歩み続ける…震災被害から立ち上がろうと巨大朝市に立ち続ける人々の思い

番組担当者のつぶやき
 八戸の回を担当した坂川です。
 私事ですが、青森に転勤してきたのは4年ほど前。失礼ながら、青森のイメージは、りんごとねぶたと太宰治。全部、県の西側・津軽地方のことばかり。それでも、八戸についてかろうじて知っていたのが、港町だということでした。今回取材を進めると、この港は、絶えずヤマセに脅かされてきた八戸暮らしと経済を救おうという、先人の壮大な夢の結晶だとわかりました。ロマンあふれる港のお楽しみスポット、ご紹介します。
 今、八戸で最も活気に満ちた場所と言えば、番組でも紹介した館鼻岸壁朝市(たてはながんぺきあさいち)。しかし、1月と2月は、寒さが強くお休み・・・。残念・・・?!いえいえ、そんなことはありません。朝市が開催される館鼻岸壁には、冬の間も港気分に浸れるスポットがあります。
 「浜のスーパー 漁港ストア」。レトロな空気感漂うこの店は、漁船向けに製氷工場を経営している会社がタバコ屋として創業。やがて県外から長旅の漁に訪れる漁師たちのために、洗剤や歯ブラシなどの日用雑貨品を売るようになったのだとか。人気なのが、昭和56年に併設された蕎麦屋。夜の漁を終えた漁師たちに朝ごはんを提供するため営業を始めました。今は漁師だけでなく、サラリーマンがお昼を食べに来たり、休日に家族連れが訪れたりなど、八戸市民が広く訪れる憩いの場に。
 そんな漁港ストア、冬ならではの限定メニューが「鍋焼きうどん」です。イカゲソのだしが出たつゆが、冷えた体をぽかぽかに温めてくれます。冬の漁師たちも、きっとこうやって体を温めたに違いない。大音量でかかる演歌を聴けば、気分は完全に海の男。あつあつのおでんも一緒に。締めはワンカップをどうぞ。

 次にご案内するのは、“もう1つの朝市”。東北新幹線の「八戸駅」を降りたら、JR八戸線で「陸奥湊(むつみなと)駅」へ向かいましょう。駅を降りると出迎えてくれるのが、マスコットキャラ「イサバのカッチャ」。
 このキャラの由来を少々。「イサバ」とは、魚の行商のこと。漢字では「五十集」と書くように、どんな魚も集めて、背中にしょった籠に入れ、売り歩きました。この「陸奥湊駅」から、町中へ、山中へ、県外へ。まだスーパーなどなかったころ、港でとれた魚を家庭に届けたのが、イサバの女性(カッチャ)たちだったのです。
 今は行商をすることのなくなった女性たち。しかし、かつて県内外へ送り届けるための魚を買っていた市場は、まだ健在。陸奥湊駅前には、今も多くの魚の卸売り店が軒を連ねます。中でも最も大きいのが、駅の目の前にある「八戸市営魚菜小売市場」。これこそ、“もう1つの朝市”です。
 鮮魚に刺身、珍味に加工品まで、なんでもそろいます。買った魚は、もちろん持って帰るものよし。ですが、店内奥のテーブルで、ご飯を注文し、そのままおかずにいただくことができるんです。カッチャたちにお薦め商品を聞いたり、値引き交渉をしたりして、自分のお気に入りの一皿を作るのが、また一興。買うのに夢中になりすぎると、食べきれなくなりますので、ご注意下さい。
 最後に2つ注意。1つ、こちらの朝市は、日曜日がお休みです。2つ、売り場のカッチャたちは、夜2時には起きて、3時には商売を始めるというかなりの早起き。お昼近くになると、店じまいしてしまっているお店もちらほら。なので、おでかけの際は、お早めに!
 個人的には、「本八戸駅」から始発電車で「陸奥湊駅」へ向かうのがお薦め。夜明け前のせわしい市場の港風情、ぜひご堪能ください。



<参考>
□ みちのく建物探訪 〜青森県弘前市 久渡寺 オシラ様の歴史刻む
毎日新聞2017年12月19日
◇ 約250体が並ぶ観音様の石像群
 青森県弘前市中心部から南に約10キロ。久渡寺(くどじ)山(標高約663メートル)の山腹に、津軽三十三観音の一番札所の久渡寺が見えてくる。山門の先には、227段の石段。老杉に囲まれた立地が神秘的な空気を醸し出している。
 石段を上ると目の前に聖観音堂があり、すぐ後ろ手には約250体の観音様の石像が連なっている。須藤光昭住職(44)によると、石像群は地蔵と勘違いされ、「心霊スポット」と言われることもあるというが、実は歴史が隠されている。
 1970年代、土砂災害で境内の一部が被害に遭い、多くの人々から援助を受けた。寄付をした人たちの家内安全を祈願しようと、当時の住職がこれらの石像を寄進したのだという。
 そんな久渡寺の歴史は1191(建久2)年にさかのぼる。唐僧・円智上人が、慈覚大師作の聖観音を本尊として建立。江戸時代には津軽真言五山の一つとして、藩の祈願所となり、手厚い保護を受けた。だが、明治維新の神仏分離で藩からの援助が受けられなくなった。檀家(だんか)制度を持たない同寺は運営困難に陥る。そこで、東北に伝わる民間信仰「オシラ様」をまつるオシラ講を始めたという。
 オシラ様とは桑の木で作った30センチほどの棒に男女の顔や馬の頭を彫るなどし、衣装を着せたご神体。久渡寺では明治以降、家や村でまつっているオシラ様を人々が持ち寄り祈とうしてもらうオシラ講を執り行ってきた。その信仰に寺は支えられてきた。須藤住職は「信仰の強さと歴史の重さを実感する」と言う。
 須藤住職によると、引きこもりの我が子を案じた親が何度も祈願に来たことも。後に元気になった子を連れてお礼参りに訪れたといい、「ほっとした笑顔を見ると、住職冥利に尽きる。誰かを思う人たちの姿を見ると、人のつながりを再確認する」と話す。毎月、寺を訪れるという弘前市内の80代女性は「家族の幸せを思ってオシラ様をまつります。久渡寺に来ると曇っていた気分も明るくなる」と話した。
 本堂では毎年5月に集団祭祀(さいし)を開催。県内外から多くの人がオシラ様を持ってやって来る。祈とうを受けるオシラ様は年間2000~3000体に上るという。木造の本堂は約70年間、多くの人々が願いを託す場所として親しまれてきた。
 須藤住職は「信仰を伝え、受け継いでいくことも寺の責務。人々の心のよりどころである祈願寺として、今後もこの信仰を歴史に刻んでいきたい」と話している。【岩崎歩】