「新編・神社の古代史」(岡田精司著、學生社、2011年発行)第6章・東国の鎮守より。
近隣県にあり、有名な神社でありながら、実はまだこの二つの神社に参拝したことがありません(^^;)。
以前から、古事記や日本書紀に出てくる関東唯一の神社・神様であることを知ってはいたので、なぜ茨城県なんだろう、と不思議に思っていました。
しかしこの本を読み、俄然興味が湧いてきました。
とくに出雲国譲り伝説にも出てくるタケミカヅチは、鹿島神宮がオリジナルで出雲はその転用だったという著者の説には驚かされました。そこには古代日本における豪族の覇権争いが反映されていたのですね。さらにそれが春日大社の創建につながるとは・・・スリリングなミステリー小説を読んでいるようでした。
機会があったらぜひ参拝したいと思います。
■ 鹿島神宮の拝殿・本殿は北向き
古い時代の神社は参道正面に社殿がないのがふつう。神社の森が鬱蒼と茂って、参道から絶対に社殿が見えないというのが古代の信仰だった。
御神木は本殿の真裏にあり、御神木の背後に鏡石がある。それから奥宮を越えてずうっと東へ行くと要石がある。要石は見た目は小さいが、地面に埋もれている部分がとてつもなく大きいらしい。
社殿が北向きである理由は、この神社が大和王権の東国の鎮めとして設置されたという性格と関わりがある。東国平定が完了すると、中央政権の関心はその北にあるエミシの世界へ向かう。鹿島の神はエミシ征討の神としての機能を持たされ、エミシの世界がある北向きに鎮座することになった。鹿島神宮を分祀した神社は『延喜式』の神名帳では東北地方に分布しているのが特徴である。
年号の延暦、桓武天皇の時代には坂上田村麻呂による蝦夷征討が行われたが、征討軍の陣中の守護神として、また征服地の鎮守神として鹿島の神が祭られた。
■ 鹿島神宮と香取神宮は2つでセット
『六国史』『延喜式』には鹿島香取使(両神宮に対して毎年2月に朝廷から任命・派遣される勅使)の記述があり、鎌倉時代まで続いていた。地方の神社としてこのように勅使が派遣されるのは、ほかに宇佐八幡宮だけという特別扱いである。
春日大社の御祭神は四座並んでいるが、この四座のうち第一座が鹿島のタケミカヅチ、第二座が香取のフツヌシ(イハヒヌシ)と、ここでもセットで扱われている。
現在の祭りでも、12年に一度ずつ午年(うまどし)に、鹿島の神幸祭(霞ヶ浦を船で鹿島から香取へ向かう)、香取の軍神祭(香取から鹿島へ向かう)という。
■ 「神宮」を名乗る神社
『延喜式』の神名帳の中で「神宮」は伊勢神宮と鹿島・香取神宮だけ。
■ 神郡を有する神社
神郡とは神社の特別な領地で、幾外に限って神郡という地域が特別の神社で設置された(例:伊勢神宮、宗像大社、出雲大社など)。鹿島・香取神宮はそれぞれ常陸国鹿島郡、下総国香取郡を所有し、それは軍事上かつ交通上重要なところにある神社だからというのが定説である。
『常陸国風土記』によると、649年(大化5年)に那賀の国造の領地と、茨城の国造の領地、南の方は下総の海上の国造の領地からの一里を合わせて鹿島郡をつくった。
■ 鹿島神宮の神話
常陸国風土記では鹿島を香島と書いているが、のちには鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて鹿の字に固定した。
常陸国風土記では高天原の神々の神集い(かむつどい)によりカシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)の天下りが決定された。この「高天原から天下った」ということは、ただ事ではない。古事記と日本書紀では高天原には天皇家と中央の有力豪族の祭る氏神以外の籍はない。風土記には高天原から天下ったという話は2つだけで、カシマノアメノ大神(『常陸国風土記』)と天孫ニニギの降臨(日向国風土記)。
カシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)は出雲神話で活躍する神である。出雲国譲りの時にタケミカヅチは香取神のフツヌシのお供をして下ったという神話と対応する。
どうもタケミカヅチの物語は、最初は関東へ下って平定する方が古い神話だったらしい。それがあとで出雲神話がつくられたときに、タケミカヅチの下りる先が出雲へ変えられたのではないか。
鹿島の神が現れたのは崇神天皇の時代であり、ここに神宮を造営したのは天智天皇だと『常陸国風土記』に書いてある。元は霊石だけがあって海に向かって拝む形だったのかもしれない。鹿島神宮は広い大地の上にあって、継代は原生林になっており、いまは天然記念物になっているが、この森そのものが聖地で、その中に不思議な鏡のように平たい鏡石があったり、大地に広く根を張ってちょこっと頭を出しているだけの要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから合って、そして天智朝の頃にはじめて社殿が創建されて神社の形を整えたのかもしれない。
『常陸国風土記』には船を造って納める話がある。これにちなんで古代では、毎年7月に津宮というところに船を奉納した。
■ 鹿島神宮のタケミカヅチという神はどういう性格の神か?
鹿島神宮の古い神体としては、本殿の後ろに磐座と神木があるが、社殿ができてからは刀剣が御霊代になった。現在は鹿島神宮の宝物館に2mを越す長い直刀が飾ってある(国宝)。やはり鹿島は刀剣と関係の深い神であった。
タケミカヅチという名前の神は、鹿島神宮の他には全国どこにも祭られていない。唯一、石上(いそのかみ)神宮には、タケミカヅチが天上から投げ下ろした刀が祭られているという伝説があるのみ。
タケミカヅチは、もとは物部氏が奉じていた神らしい。物部氏が没落した後で二次的に中臣氏が祭るようになったのではないか。
以下は著者の推察;
石上神宮の主祭神はフツノミタマである。5-6世紀の頃、フツノミタマを奉じて物部氏が各地に遠征した。そういうものがおちこちにある布都御魂神社や物部神社に反映している。その中で関東はとくに重要なところで、東国遠征が物部氏が大連の時に行われている。そして東国の守護神として、関東平野の一番東の鹿島の地に、ちょうど伊勢神宮が太陽が東から昇るところに造られたのと同じように、鹿島神宮を造った。
安閑〜欽明朝ごろになり、武蔵や上野毛の反乱などが平定されたその時点で、石上の分霊というか、国譲りの神話でフツノミタマの剣をを操るタケミカヅチが、とくに東国を鎮めるための神になる。そして平定に活躍した神だから、これが記紀の神話を造るときには出雲の平定にも転用された可能性がある。
東国へ遠征しタケミカヅチを鹿島の地に祭った物部氏は、聖徳太子の頃に蘇我氏に敗れて没落する。その後藤原鎌足がこの辺を領地にした(『常陸国風土記』)。そしてその時期から中央でのお祭りを分担する氏族であった中臣氏が、物部氏に代わって鹿島神宮をお祭りするようになった。
やがて藤原氏が中臣氏から独立すると、新しい神社を造らなければならなくなった。そこで中臣氏の氏神の枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)の神二座と、鎌足の封戸(ふこ)に縁のある土地の鹿島のタケミカヅチ、香取のイハヒヌシを合祀して平城京に祭ったのが春日大社である。そうして新たに、鹿島の神が鹿に乗って東国からはるばる春日山にご神幸になるという藤原氏の神話ができた。
■ 香取神宮の神イハヒヌシ
現在のご祭神はフツヌシになっているが、『日本書紀』ではイハヒヌシとなっている。香取の神をフツヌシとしている古い例は、平安時代に斎部広成(いんべのひろなり)が編纂した『古語拾遺』であり、これは中臣系ではなくて斎部系の手になるもの。つまり関東の神に関しては正確な知識を持ち合わせていなかったため間違って記述した可能性がある。この後の記述は南北朝の『神皇正統記』までない。
フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名という説がある(三品彰英、松前健)。
イハヒヌシは地元の豪族の祭る神だったらしい。イハヒヌシの語源を考えると、“いわう”は斎あるいは祝だからイハヒヌシ=斎王はお祭りを執行する責任者ということになる。祭りをする人が神になるとはどういうことか。鹿島の祭神は大和の大王の命で祭られている大事な神様なので、地元の豪族の祭っている神が奉仕するような形があったのかもしれない。
このような関係は伊勢神宮にも見られる。伊勢神宮には内宮と外宮があり、今は同格に扱われているが、もとは内宮が格が上である。古くは外宮は「御饌都神」(みけつかみ)と呼ばれたアマテラス大神に奉仕する料理番の神様であった。
香取の方は斎王という神主の形で、鹿島の神を祭る役である。もとはちゃんとした地主神としての神名があったはずだが、それが鹿島の神の斎王ということになり、その名前が残ってしまったと考えられる。
■ 神社と国家の関係
寺院にも国家的なものと民間の檀那寺的なものの両方があるが、神社の場合も国家の鎮護にとくに力を入れているお社と、そうでない民衆信仰のお社がある。日本の歴史の那賀でこの両方の信仰が絡み合いながらも、二つの系統として流れてきている。
鹿島・香取と国家の関係は中世では全く絶えていたが、明治からまた別の形で復活する。明治維新の際に明治天皇が「大阪行幸」を行ったが、進発前と帰還後に御所の紫宸殿において「軍神祭」が催された。軍神祭の祭神は天照大神・大国主神・武甕槌之男神・経津主神の四座で、明治天皇が自ら祭文を奏上した。四柱の神々はいずれも記紀神話の出雲国譲りに登場する神々であり、維新の王政復古と江戸開城を国譲りになぞらえたもので、ここに鹿島・香取の祭神が登場した。この軍神にあやかり命名した軍艦に「鹿島」「香取」がある。
神社は古代の姿のまま現代まで続いているのではなく、時代とともにいろいろ変化するよい例かもしれない。
近隣県にあり、有名な神社でありながら、実はまだこの二つの神社に参拝したことがありません(^^;)。
以前から、古事記や日本書紀に出てくる関東唯一の神社・神様であることを知ってはいたので、なぜ茨城県なんだろう、と不思議に思っていました。
しかしこの本を読み、俄然興味が湧いてきました。
とくに出雲国譲り伝説にも出てくるタケミカヅチは、鹿島神宮がオリジナルで出雲はその転用だったという著者の説には驚かされました。そこには古代日本における豪族の覇権争いが反映されていたのですね。さらにそれが春日大社の創建につながるとは・・・スリリングなミステリー小説を読んでいるようでした。
機会があったらぜひ参拝したいと思います。
■ 鹿島神宮の拝殿・本殿は北向き
古い時代の神社は参道正面に社殿がないのがふつう。神社の森が鬱蒼と茂って、参道から絶対に社殿が見えないというのが古代の信仰だった。
御神木は本殿の真裏にあり、御神木の背後に鏡石がある。それから奥宮を越えてずうっと東へ行くと要石がある。要石は見た目は小さいが、地面に埋もれている部分がとてつもなく大きいらしい。
社殿が北向きである理由は、この神社が大和王権の東国の鎮めとして設置されたという性格と関わりがある。東国平定が完了すると、中央政権の関心はその北にあるエミシの世界へ向かう。鹿島の神はエミシ征討の神としての機能を持たされ、エミシの世界がある北向きに鎮座することになった。鹿島神宮を分祀した神社は『延喜式』の神名帳では東北地方に分布しているのが特徴である。
年号の延暦、桓武天皇の時代には坂上田村麻呂による蝦夷征討が行われたが、征討軍の陣中の守護神として、また征服地の鎮守神として鹿島の神が祭られた。
■ 鹿島神宮と香取神宮は2つでセット
『六国史』『延喜式』には鹿島香取使(両神宮に対して毎年2月に朝廷から任命・派遣される勅使)の記述があり、鎌倉時代まで続いていた。地方の神社としてこのように勅使が派遣されるのは、ほかに宇佐八幡宮だけという特別扱いである。
春日大社の御祭神は四座並んでいるが、この四座のうち第一座が鹿島のタケミカヅチ、第二座が香取のフツヌシ(イハヒヌシ)と、ここでもセットで扱われている。
現在の祭りでも、12年に一度ずつ午年(うまどし)に、鹿島の神幸祭(霞ヶ浦を船で鹿島から香取へ向かう)、香取の軍神祭(香取から鹿島へ向かう)という。
■ 「神宮」を名乗る神社
『延喜式』の神名帳の中で「神宮」は伊勢神宮と鹿島・香取神宮だけ。
■ 神郡を有する神社
神郡とは神社の特別な領地で、幾外に限って神郡という地域が特別の神社で設置された(例:伊勢神宮、宗像大社、出雲大社など)。鹿島・香取神宮はそれぞれ常陸国鹿島郡、下総国香取郡を所有し、それは軍事上かつ交通上重要なところにある神社だからというのが定説である。
『常陸国風土記』によると、649年(大化5年)に那賀の国造の領地と、茨城の国造の領地、南の方は下総の海上の国造の領地からの一里を合わせて鹿島郡をつくった。
■ 鹿島神宮の神話
常陸国風土記では鹿島を香島と書いているが、のちには鹿島の神が鹿に乗って大和の春日山へ移ったという神話と結びついて鹿の字に固定した。
常陸国風土記では高天原の神々の神集い(かむつどい)によりカシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)の天下りが決定された。この「高天原から天下った」ということは、ただ事ではない。古事記と日本書紀では高天原には天皇家と中央の有力豪族の祭る氏神以外の籍はない。風土記には高天原から天下ったという話は2つだけで、カシマノアメノ大神(『常陸国風土記』)と天孫ニニギの降臨(日向国風土記)。
カシマノアメノ大神(=タケミカヅチ)は出雲神話で活躍する神である。出雲国譲りの時にタケミカヅチは香取神のフツヌシのお供をして下ったという神話と対応する。
どうもタケミカヅチの物語は、最初は関東へ下って平定する方が古い神話だったらしい。それがあとで出雲神話がつくられたときに、タケミカヅチの下りる先が出雲へ変えられたのではないか。
鹿島の神が現れたのは崇神天皇の時代であり、ここに神宮を造営したのは天智天皇だと『常陸国風土記』に書いてある。元は霊石だけがあって海に向かって拝む形だったのかもしれない。鹿島神宮は広い大地の上にあって、継代は原生林になっており、いまは天然記念物になっているが、この森そのものが聖地で、その中に不思議な鏡のように平たい鏡石があったり、大地に広く根を張ってちょこっと頭を出しているだけの要石があったり、湧泉の池があったり、そういう原始信仰的なものを崇拝対象とした祭場が古くから合って、そして天智朝の頃にはじめて社殿が創建されて神社の形を整えたのかもしれない。
『常陸国風土記』には船を造って納める話がある。これにちなんで古代では、毎年7月に津宮というところに船を奉納した。
■ 鹿島神宮のタケミカヅチという神はどういう性格の神か?
鹿島神宮の古い神体としては、本殿の後ろに磐座と神木があるが、社殿ができてからは刀剣が御霊代になった。現在は鹿島神宮の宝物館に2mを越す長い直刀が飾ってある(国宝)。やはり鹿島は刀剣と関係の深い神であった。
タケミカヅチという名前の神は、鹿島神宮の他には全国どこにも祭られていない。唯一、石上(いそのかみ)神宮には、タケミカヅチが天上から投げ下ろした刀が祭られているという伝説があるのみ。
タケミカヅチは、もとは物部氏が奉じていた神らしい。物部氏が没落した後で二次的に中臣氏が祭るようになったのではないか。
以下は著者の推察;
石上神宮の主祭神はフツノミタマである。5-6世紀の頃、フツノミタマを奉じて物部氏が各地に遠征した。そういうものがおちこちにある布都御魂神社や物部神社に反映している。その中で関東はとくに重要なところで、東国遠征が物部氏が大連の時に行われている。そして東国の守護神として、関東平野の一番東の鹿島の地に、ちょうど伊勢神宮が太陽が東から昇るところに造られたのと同じように、鹿島神宮を造った。
安閑〜欽明朝ごろになり、武蔵や上野毛の反乱などが平定されたその時点で、石上の分霊というか、国譲りの神話でフツノミタマの剣をを操るタケミカヅチが、とくに東国を鎮めるための神になる。そして平定に活躍した神だから、これが記紀の神話を造るときには出雲の平定にも転用された可能性がある。
東国へ遠征しタケミカヅチを鹿島の地に祭った物部氏は、聖徳太子の頃に蘇我氏に敗れて没落する。その後藤原鎌足がこの辺を領地にした(『常陸国風土記』)。そしてその時期から中央でのお祭りを分担する氏族であった中臣氏が、物部氏に代わって鹿島神宮をお祭りするようになった。
やがて藤原氏が中臣氏から独立すると、新しい神社を造らなければならなくなった。そこで中臣氏の氏神の枚岡(ひらおか)神社(東大阪市)の神二座と、鎌足の封戸(ふこ)に縁のある土地の鹿島のタケミカヅチ、香取のイハヒヌシを合祀して平城京に祭ったのが春日大社である。そうして新たに、鹿島の神が鹿に乗って東国からはるばる春日山にご神幸になるという藤原氏の神話ができた。
■ 香取神宮の神イハヒヌシ
現在のご祭神はフツヌシになっているが、『日本書紀』ではイハヒヌシとなっている。香取の神をフツヌシとしている古い例は、平安時代に斎部広成(いんべのひろなり)が編纂した『古語拾遺』であり、これは中臣系ではなくて斎部系の手になるもの。つまり関東の神に関しては正確な知識を持ち合わせていなかったため間違って記述した可能性がある。この後の記述は南北朝の『神皇正統記』までない。
フツヌシは石上神宮の祭神フツノミタマの別名という説がある(三品彰英、松前健)。
イハヒヌシは地元の豪族の祭る神だったらしい。イハヒヌシの語源を考えると、“いわう”は斎あるいは祝だからイハヒヌシ=斎王はお祭りを執行する責任者ということになる。祭りをする人が神になるとはどういうことか。鹿島の祭神は大和の大王の命で祭られている大事な神様なので、地元の豪族の祭っている神が奉仕するような形があったのかもしれない。
このような関係は伊勢神宮にも見られる。伊勢神宮には内宮と外宮があり、今は同格に扱われているが、もとは内宮が格が上である。古くは外宮は「御饌都神」(みけつかみ)と呼ばれたアマテラス大神に奉仕する料理番の神様であった。
香取の方は斎王という神主の形で、鹿島の神を祭る役である。もとはちゃんとした地主神としての神名があったはずだが、それが鹿島の神の斎王ということになり、その名前が残ってしまったと考えられる。
■ 神社と国家の関係
寺院にも国家的なものと民間の檀那寺的なものの両方があるが、神社の場合も国家の鎮護にとくに力を入れているお社と、そうでない民衆信仰のお社がある。日本の歴史の那賀でこの両方の信仰が絡み合いながらも、二つの系統として流れてきている。
鹿島・香取と国家の関係は中世では全く絶えていたが、明治からまた別の形で復活する。明治維新の際に明治天皇が「大阪行幸」を行ったが、進発前と帰還後に御所の紫宸殿において「軍神祭」が催された。軍神祭の祭神は天照大神・大国主神・武甕槌之男神・経津主神の四座で、明治天皇が自ら祭文を奏上した。四柱の神々はいずれも記紀神話の出雲国譲りに登場する神々であり、維新の王政復古と江戸開城を国譲りになぞらえたもので、ここに鹿島・香取の祭神が登場した。この軍神にあやかり命名した軍艦に「鹿島」「香取」がある。
神社は古代の姿のまま現代まで続いているのではなく、時代とともにいろいろ変化するよい例かもしれない。