知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

石上(いそのかみ)神宮の成り立ち

2017年04月22日 08時06分58秒 | 神社・神道
同じく前出の「新編・神社の古代史、岡田精司著、學生社、2011年発行」の第5章:王権の軍神より。

関東地方の鹿島神宮・香取神宮との関連がある奈良の古社です。
古代には、大和王権の武力の象徴である霊剣フツノミタマを祭神とした、武器庫と神宝の格納庫という重要な役割を担っていました。
歴史の流れの中でその役割が変遷し、物部氏の氏神となり、現在は地域の鎮守神に落ち着くという、波瀾万丈というか栄枯盛衰というか・・・壮大な物語を秘めていることを知りました。

興味が湧き、抜粋ですがここに書き残しておきたいと思います。


■ 石上神宮の禁足地に埋まっていた鉄刀
 拝殿(鎌倉時代の建物で国宝)の御簾を挙げると向こうに空き地があって一区画が禁足地になっている。その中央が少し高くまんじゅうのようになっており、ここが信仰の対象である。その土盛りの地下にご神体の刀剣が埋まっているという伝承があった。
 明治時代には神職の世襲を禁止され、それに伴い大宮司に任命された水戸の国学者である菅政友が赴任した際、発掘調査を行った。報告書によると、3m司法ほどの石積みのへやっが裏、その中に刀剣や翡翠の勾玉、琴柱形石製品、金剛垂飾品、などがあった。鉄刀は1本だけで、素環頭内反太刀(そかんとううちぞりたち)と呼ばれるもので、これこそが御祭神の石上のフツノミタマ(布都御魂)あるいはフルノミタマ(布留御魂)と呼ばれた、その霊験に相違ないとされた。これらの出土品は、古墳時代前期のだいたい四世紀頃のものと同じである。
 この禁足地の発掘に続いて、大正2(1913)年には禁足地の後方の窪地を埋め立て拡張して本殿を造ってしまった。そしてもと土盛りのあったところは、いま白い砂利を敷いてそこに丸石が一つ置かれているのみ。

■ 石上神社の祭神は霊剣フツノミタマ
 『延喜式』の神名帳には「石上坐布都御魂神社」(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)とある。名神大社で、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)のお祭りに朝廷から特別にお供え物がある待遇。
 石上という土地にお祭りされているフツノミタマという忌みであるが、祭神はフツノミタマノ大神という名の霊剣だといわれている。神の依り代というのと違って、刀剣が神体で神そのものという興味深い例である。
 この剣は日本神話では2回活躍する;
1.オオクニヌシの国譲りの時にタケミカヅチとフツヌシが活躍するが、その時に持っていった刀がこのフツノミタマ。
2.初代大王である神武天皇の東征の時。神武天皇が熊野路に進んだときに熊野姿の土地神が出てきて、その毒気に当てられて全軍の兵士が倒れてしまう。それを天井から見ていたアマテラス大神がタケミカヅチを呼んで「お前が助けにいけ」というと「私が行かなくても横刀フツノミタマを投下しましょう」と答えてその刀を地上に投げ下ろす。するとタカクラジという人の家の倉の屋根を貫いて床に刺さった。タカクラジがそれを神武天皇に献上すると、たちまちの内に気を失っていた兵士達が目覚め、熊野を平定できた(古事記)。

■ 石上神宮は物部氏の氏神ではない
 この神社は最初から物部氏がお祭りしていたわけではない。
 物部氏の先祖は、天から石の船に乗って下りたというニギハヤヒだという伝承がある(「先代旧事本紀」)が、本来は祖先ではなく守護神であろう。すると、物部氏は石上神宮のフツノミタマを氏神として祭る必然性はなかった。物部氏はもともとは大和盆地の氏族ではなくて河内平野の出身の氏族である。
 物部氏が石上神宮を祭るというのは、ちょうど伊勢神宮において荒木田、度会という氏族が祭祀を司るのと似ている。渡会氏は外宮の方を氏神とするが、内宮は天皇家の氏神で荒木田氏の氏神ではない。物部氏は軍事と合わせてこの石上神宮の祭祀に奉仕すると考えるとよい。伊勢や住吉、鹿島の場合同様、物部氏と石上神宮についても氏子と氏神の関係ではなく、大和王権における職掌の分担としてここに奉仕していた。

■ 物部氏は遠征、大伴氏は御所の警備
 両方とも大和王権の軍事氏族である。
 大伴氏の伝承は「醜(しこ)の御楯」になるという内容が多い。御所の固め、帝の守りなど天皇や御所を守るという伝承がある。大王の側近に奉侍することから大伴というのだろう。
 物部氏については逆に遠国を征討するときに出かけていった。九州の磐井の反乱、伊勢の反乱など。
 大伴は天皇の側近の護衛、親衛隊長、近衛師団。それに対して物部は遠征軍を率いた将軍。
 
■ 石上神宮は武器庫(神庫)だった
 石上神宮の西側の平地にあたるところ、今の天理教本部の建物があるあたりを布留遺跡といい、古墳から出土するのと同じような刀の柄や鞘や馬の歯など軍事関係のものが随分出てくる。
 石上神宮は大和王権の武力の象徴である霊剣を祭る。
 古代では具力で平定することと呪祷で祈り倒そうという行為が一体であり、征服したら必ずそこの豪族が持っている神宝を取り上げることが重要だった。降伏した豪族には必ず神宝を差し出せ、それらを一つの所に集めてフツノミタマの威霊のもとに抑えて収納することによって、天皇が日本中の国魂を抑えることになる。武力的な政策と合わせて、そういう呪術的な行為が必要だと考えられ、それが石上の神庫であった。
 以上のように、武器庫と神宝の格納庫、二つの役割を石上神宮は持っていた。

■ 石上神宮の歴史に伴う変遷
 ここに納められた神宝=国魂の象徴は、のちに地方豪族に全部返還した。なぜ返すのかというと、大化の改新の後、国造制や県主制が廃止されて中央集権制となり、地方豪族の脅威が無くなり、地方はみな越後守とか但馬守とか、そういう中央から派遣された行政官=国司が支配するようになって、もうそこの神宝を中央政権で押さえている意味がなくなったから。
 このような石上神宮の国家的性格は、平安京に移る桓武天皇の頃までは続いていたが、それ以後は古代国家の変質に伴い大きく変わっていった。『延喜式』では正式の名称もそれまでの石上神宮から石上布都御魂神社に変わり、武神の性格は残しながらも物部首の子孫の布留朝臣の氏神へと変貌していく。
 鎌倉時代になると国家との関係は薄れ、中世以降は地域の鎮守神としての性格を強め、名称も布留大明神・岩上大明神などと呼ばれるようになり、永久寺・石上寺などの神宮寺と結びついた展開を見せるようになる。土地の人々の農耕の祈りを捧げる布留の社は、もう古代の石上神宮とは全く異質のものに変わってしまった。
 なお、「石上神宮」という現在の名称は、1883年に古代の名称を復活したもの。もともと本殿はなかったが、現在の本殿は1913年に禁足地の一画に新設されたものである。
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