「氏神さまと鎮守さま〜神社の民俗史〜」(新谷尚紀著、講談社選書、2017年発行)第二章より。
氏神、産土神、鎮守神・・・似たようなイメージがありますが、はて、民俗学的にいうと違いがあるのでしょうか。
どうやら、氏神と産土神は同類ですが、鎮守神は鎮護と似ていて「いくさ(戦)」との関連が強いようです。政権レベルでは「王城鎮守」、対近隣国では「国鎮守」、地域レベルでは「郡鎮守」となります。
確かに武士の時代、「○○神社で戦勝祈願をして出兵した」という話をよく聞きますね。
それが歴史の流れの中で、戦に明け暮れる時代から平和な時代になるとともに、村の守り神に変容し区別が曖昧になっていったのでしょう。
この書籍では、歴史的文献から紐解き、部分的に近畿地方の神社を取り上げて解説しています。
□ 氏神は氏族の本貫地に祀られている在地性の強い氏神であり、そこで先祖を祭るという意識もあった。
律令官人達にとって氏神が平安京や平城京に近い畿内に多く祀られており、毎年2月・4月・11月に「先祖之常祀」が行われていた。つまり、律令官人達の出身宇治族にとってその本貫地に氏神を祀る神社を設営している例が多かったこと、そしてその祭祀には春秋の2季があり、稲作の祈年祭と収穫祭の性格があったのではないか。
□ 文献上の「氏神」
(733年)『万葉集』に「大伴氏神」として初出。大伴連の遠祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)を指しており、祖神という意味と考えられる。
□ 文献上、官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が散見される
(772年)正倉院文書の請暇解(せいかげ)
(834年)『続日本後紀』に小野氏(小野妹子の出身氏族)が近江国の滋賀郡小野村を本貫地としており、その地に氏神を祀っていて春秋の祭祀には現地に赴いて奉仕していたという記録あり。
□ 藤原氏と氏神
(777年)『続日本紀』に藤原良継が病気になったので、藤原氏の氏神である鹿嶋社と香取神にそれぞれ正三位と正四位上の神階を授けたという記録がある。
藤原氏の元の氏は中臣連であり、『古事記』『日本書紀』が記すその祖神は天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
つまり、藤原氏の氏神は、氏の祖神ではないということになる。
奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という藤原氏の祭る神社について整理すると、藤原氏の氏神は、はじめのうちは鹿嶋社・香取社の「鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命」であったのが、のちには枚岡社の「枚岡坐天之子八根命、比売神」を加えていった。
藤原氏の場合、氏神の意味がはじめ平城京の時代には“守護神”であったものが、のちに平安京の時代には“祖神”をいう意味が加わっていった。
□ 「氏神ー氏子」と「産神(うぶすな、うぶがみ)ー産子」
1800年頃の古文書によると、安芸国や甲斐国、甲州、肥後国では氏神を産神と考え、氏子を産子と考える傾向があった。
□ 「うぶすな」の意味
生まれた土地の神を「うぶすな」の神と呼ぶ早い例として確かなものは『今昔物語集』である。
鎌倉時代の辞書『塵袋』によると、うぶすなとは、それぞれの氏の本拠の地をいうのであったが、それがやがてその本拠の地で祭る神の意味へとなった。
□ 氏神と鎮守
尋常小学唱歌の「村祭」に「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭日」という歌詞がある。
郷村で祭られている神社は、概して近畿地方から中国地方など西日本では氏神と呼ばれるのに対して、北関東地方など東日本では氏神ではなく鎮守と呼ばれることが多い。
関東地方ではウジガミといえば家ごとに祭る屋敷神の呼称である例が多いのに対して、郷村で祭る神社のことは鎮守と呼ぶ例が多い。
□ 文献上の「鎮守」
(737年)『続日本紀』:軍事的な意味で用いられている。
(939年)『本朝世紀』:神祇に関する意味で初めて用いられた。
(1004年)『本朝分粋』:熱田の祭神を「鎮主」と表現している。
(1083年)「賀茂社桜会縁起」:賀茂社(※)の神が「鎮守」と表現されている。
(1123年)白河法皇が石清水八幡宮に捧げた告文より、白河法皇にとって石清水八幡宮の八幡大菩薩は、国家鎮護の神仏であり国家の鎮守として位置づけられていた。
(1145年)豊後国柚原八幡宮の解文によると八幡宮と八幡大菩薩が鎮守の神であることが院政期には平安京だけでなく地方でも見られるようになった。
(1147年)鳥羽上皇の院宣より、平安京で祇園社、祇園感神院が国家の鎮守に位置づけられるようになっていた。
(1161年)石山寺に伝わる聖人覚西の祭文によると、国鎮守は近江国の建部神社、郡鎮守は高島郡の水尾神社、そしてその下に荘郷鎮守が祭られていると読み取れ、「王城鎮守」「国鎮守」「郡鎮守」などの表現が現れてきた。
※ 賀茂社の伝承:
「山城国風土記逸文」によれば、賀茂社はもともと賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)が丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)との間にもうけたのが玉依比古と玉依比売であり、その玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしているときに流れてきた丹塗矢を拾って身ごもり誕生したのが賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)で、それらの神々を祭神とする神社である。そして玉依比古は賀茂県主らの遠祖であるとされる。
氏神、産土神、鎮守神・・・似たようなイメージがありますが、はて、民俗学的にいうと違いがあるのでしょうか。
どうやら、氏神と産土神は同類ですが、鎮守神は鎮護と似ていて「いくさ(戦)」との関連が強いようです。政権レベルでは「王城鎮守」、対近隣国では「国鎮守」、地域レベルでは「郡鎮守」となります。
確かに武士の時代、「○○神社で戦勝祈願をして出兵した」という話をよく聞きますね。
それが歴史の流れの中で、戦に明け暮れる時代から平和な時代になるとともに、村の守り神に変容し区別が曖昧になっていったのでしょう。
この書籍では、歴史的文献から紐解き、部分的に近畿地方の神社を取り上げて解説しています。
□ 氏神は氏族の本貫地に祀られている在地性の強い氏神であり、そこで先祖を祭るという意識もあった。
律令官人達にとって氏神が平安京や平城京に近い畿内に多く祀られており、毎年2月・4月・11月に「先祖之常祀」が行われていた。つまり、律令官人達の出身宇治族にとってその本貫地に氏神を祀る神社を設営している例が多かったこと、そしてその祭祀には春秋の2季があり、稲作の祈年祭と収穫祭の性格があったのではないか。
□ 文献上の「氏神」
(733年)『万葉集』に「大伴氏神」として初出。大伴連の遠祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)を指しており、祖神という意味と考えられる。
□ 文献上、官人の氏神祭祀を公認する賜暇の記録が散見される
(772年)正倉院文書の請暇解(せいかげ)
(834年)『続日本後紀』に小野氏(小野妹子の出身氏族)が近江国の滋賀郡小野村を本貫地としており、その地に氏神を祀っていて春秋の祭祀には現地に赴いて奉仕していたという記録あり。
□ 藤原氏と氏神
(777年)『続日本紀』に藤原良継が病気になったので、藤原氏の氏神である鹿嶋社と香取神にそれぞれ正三位と正四位上の神階を授けたという記録がある。
藤原氏の元の氏は中臣連であり、『古事記』『日本書紀』が記すその祖神は天児屋命(あめのこやねのみこと)である。
つまり、藤原氏の氏神は、氏の祖神ではないということになる。
奈良の春日社、河内の枚岡社、平安京の大原野神社という藤原氏の祭る神社について整理すると、藤原氏の氏神は、はじめのうちは鹿嶋社・香取社の「鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命」であったのが、のちには枚岡社の「枚岡坐天之子八根命、比売神」を加えていった。
藤原氏の場合、氏神の意味がはじめ平城京の時代には“守護神”であったものが、のちに平安京の時代には“祖神”をいう意味が加わっていった。
□ 「氏神ー氏子」と「産神(うぶすな、うぶがみ)ー産子」
1800年頃の古文書によると、安芸国や甲斐国、甲州、肥後国では氏神を産神と考え、氏子を産子と考える傾向があった。
□ 「うぶすな」の意味
生まれた土地の神を「うぶすな」の神と呼ぶ早い例として確かなものは『今昔物語集』である。
鎌倉時代の辞書『塵袋』によると、うぶすなとは、それぞれの氏の本拠の地をいうのであったが、それがやがてその本拠の地で祭る神の意味へとなった。
□ 氏神と鎮守
尋常小学唱歌の「村祭」に「村の鎮守の神さまの今日はめでたいお祭日」という歌詞がある。
郷村で祭られている神社は、概して近畿地方から中国地方など西日本では氏神と呼ばれるのに対して、北関東地方など東日本では氏神ではなく鎮守と呼ばれることが多い。
関東地方ではウジガミといえば家ごとに祭る屋敷神の呼称である例が多いのに対して、郷村で祭る神社のことは鎮守と呼ぶ例が多い。
□ 文献上の「鎮守」
(737年)『続日本紀』:軍事的な意味で用いられている。
(939年)『本朝世紀』:神祇に関する意味で初めて用いられた。
(1004年)『本朝分粋』:熱田の祭神を「鎮主」と表現している。
(1083年)「賀茂社桜会縁起」:賀茂社(※)の神が「鎮守」と表現されている。
(1123年)白河法皇が石清水八幡宮に捧げた告文より、白河法皇にとって石清水八幡宮の八幡大菩薩は、国家鎮護の神仏であり国家の鎮守として位置づけられていた。
(1145年)豊後国柚原八幡宮の解文によると八幡宮と八幡大菩薩が鎮守の神であることが院政期には平安京だけでなく地方でも見られるようになった。
(1147年)鳥羽上皇の院宣より、平安京で祇園社、祇園感神院が国家の鎮守に位置づけられるようになっていた。
(1161年)石山寺に伝わる聖人覚西の祭文によると、国鎮守は近江国の建部神社、郡鎮守は高島郡の水尾神社、そしてその下に荘郷鎮守が祭られていると読み取れ、「王城鎮守」「国鎮守」「郡鎮守」などの表現が現れてきた。
※ 賀茂社の伝承:
「山城国風土記逸文」によれば、賀茂社はもともと賀茂建角身命(かものたけつのみのみこと)が丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)との間にもうけたのが玉依比古と玉依比売であり、その玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしているときに流れてきた丹塗矢を拾って身ごもり誕生したのが賀茂別雷命(かものわけいかずちのみこと)で、それらの神々を祭神とする神社である。そして玉依比古は賀茂県主らの遠祖であるとされる。