知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「砂漠と鼠とあんかけ蕎麦」(五味太郎&山折哲雄の対談集)

2014年06月13日 12時46分06秒 | 神社・神道
2011年、アスペクト社発行。

絵本作家の五味太郎と宗教学者の山折哲雄という、不思議な組み合わせの対談集。
この対談のきっかけは、1995年の某TV番組での司馬遼太郎と山折哲雄の対談だそうです。

神道とはどういう宗教なんですか?
と司馬が質問すると、
あれは宗教ではありません、生活の礼節ですよ
と山折が軽く答えるのを五味太郎が見て(この人はすごい!)とその瞬間から恋に落ちたらしい。

五味は早速「神って、いったい何ですか?」と聞いてみたくて山折に対談を申し込んだそうな。
という経緯で成立した、延べ30時間にわたる対談をまとめたモノがこの本です。



五味の素朴な疑問に対して、古今東西の知識を縦横無尽に駆使して答えを探す山折のやり取りが見物です。
ホントに山折先生、博識です。

一神教と多神教、その成立の背景は風土の違いによる、という指摘には納得させられました。
ユング心理学の神髄は「聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっている。」を見抜いていたこと、という記述にも驚きました。
他にも「ははあ、そういうことなのか・・・」と目から鱗が落ちる情報がたくさんあり、読後感良好です。

ただ、対談集の欠点として、詰めが甘いことは否めません。
まあ、読みやすいからいいんですけど。


メモ
 自分自身のための備忘録。

宗教を定義づける必要十分条件
 世界の大宗教、普遍的な宗教と言われているもののほとんどが、「教祖」「教義」「儀礼」を必ず備えている。
 その次に「伝道」が必要になってくるが、これはしばしば攻撃的で、救済の教えを伝えるという大義名分のもとに、実際は戦争をやり続けてきている。それが二千年、三千年経って、今日の世界における宗教対立、民族対立、国家と国家との対立、殺し合い、血で血を洗う状況を作り上げてきた。

「神道」が“宗教”ではない理由
 本来の日本の神道は「教祖・教義・儀礼・伝道」という四要素を持っていなかった。
 人間の心の奥底に潜んでいる、あるいは自然との調和を自然に準備するような、そういう世界。
 ところがその神道も、仏教と結びついたり儒教と結びついたりして国家神道になったときに、おかしくなる。
 平安時代に律令国家と結びついた神道というものができあがり、中世になると仏教と結びついたり密教的な神道ができあがったりして、その延長線上に明治以降の国家神道がある。
 国と結びついたときに日本の神道は変質して、ふつうの宗教が持っている狂気を持つようになった。

宗教と近代化の関係
(五味)宗教的なものからなるべく離れていくことが近代化という感覚をもっている。
(山折)そうならば、近代になればなるほど宗教というものは乗り越えられていっていいはず。ところが、近代を準備したヨーロッパ世界を中心に、宗教対立がますます盛んになってきている。結局、近代というものは宗教を乗り越えることができなかった。

一神教/多神教が発生する風土
 イスラエルの砂漠を歩いたときに、この地上にはなんら頼るべきものがないんだなあという実感に襲われた。だからこの砂漠の民は、天上の彼方に唯一の価値あるもの、絶対神を考えざるを得なかったのだ。
 一神教というものが発生する風土的な条件というのは砂漠である。キリスト教とかイスラム教の発生を考えるときには、砂漠的風土というものを考えなければならない。
 一方、日本は列島全体が森と山に覆われていて海の幸・山の幸が豊かであり、なにも天上の彼方に唯一価値のあるものを求める必要がない。つまり多神教的なものが発生する風土的条件というのは日本的風土なのだ。

「祟り信仰」が日本の信仰のベース
 八百万の神のうちの一人が祟ったために、地震が起こるとか、誰それが病気になるとか、死んでしまうとか、政治が混乱するとか、社会が乱れるとか、全部そういう何者かの祟りだっていう考え方が、昔からず~っと続いている。
 これは「祟り信仰」というもので、日本人の信仰の一番ベースに流れているもの。
 誰かの祟りによって誰かが敗北に追い込まれていく。それを鎮めなければならない。そこで鎮魂の儀礼が登場する。大昔からそういう知恵が働いている。鎮魂の儀礼を怠ると社会は乱れる。
 世界の中で日本が非常にずば抜けて、こういうメカニズムを政治に転用してきた。

2種類の多神教
 一つは目に見える多神教。
 ギリシャの多神教とか、ヒンドゥー教の世界とか、中国の道教の世界のは、全部目に見える多神教。神々が全部人間の姿をしている、つまり肉体性を持っている。
 もう一つは目に見えない多神教。
 それが日本の記紀神話に現れる日本の多神教的な世界と私(山折)は考えている。本来の記紀神話に現れてくる神々というのは、形を、肉体性を持っていない。それは自然の中に隠れている。日本の神様は、みんな記号で表現できる。あるいは、場所で表現できる。
 そういう神々はなぜ存在したかーこの日本の風土と非常に大きな関係がある。それは森の中に鎮まっている、川に存在している、樹木の中に神々がいる、そういう考え方である。
 自然の中に存在しているそういうものを人格化したのが、目に見える多神教であり、ここが大きな違いである。
 今から五千年前とか一万年前の人類の全体の状況は、圧倒的に「目に見えない多神教」だった。キリスト教とか仏教が発生する以前の地球上の人間が考えたことは、天地万物に命が宿っているという信仰だけだったはず。
 それをそのままに受け継いでいるのが日本の神道である。
 自然に鎮まっている目に見えない神々を人格化したヨーロッパが、一神教を生み出した。
 ところが、「あらゆるものに命が宿っている」という信仰もずっと生き続けている。
 それがカトリックの世界に吸収されていった。だからカトリックはかなり多神教的な要素をたくさん持っている。あれを一神教というふうに言ってしまうと間違う。

イスラムの特異性
 イスラムは形あるものに対する徹底した拒否の考え方を持ち、それは中心的地域である砂漠的な世界に起因する。砂漠的世界では、どうしても抽象的な一神というものにこだわる。

「ノアの方舟」は“生き残り”戦略の象徴
 地球に大洪水が襲ってきて、ほとんどの人類は絶滅するけど、ノア一族だけは船に乗って助かるという物語、つまりこれは人類の「生き残り」の物語である。
 このサバイバル、生き残りという思想は、ヨーロッパの歴史、あるいはユダヤ、キリスト教の歴史にずーっと貫いて、それこそ生き抜いている。哲学、宗教、経済、倫理、あらゆる分野の学問のそこを流れているのは、生き残り戦略である。
 アングロ・サクソン(※)というのは、その生き残り戦略に基づいて世界制覇を続けてきた。
 今日のアングロ・サクソンのグローバリゼーションというのは、アングロ・サクソンが作り上げた正義とか理性とか公平さというものを、いわば契約の条件として、それで生き残れといっているのである。
 アングロ・サクソンが“生き残り作戦”と言う場合、それはアングロ・サクソンの生き残り作戦であり、人類全体の生き残りという意味ではない。
※ アングロ・サクソン:5世紀、現在のドイツ北岸、デンマーク南部よりグレートブリテン島に移住してきたアングル人、サクソン人らゲルマン系の部族の総称。

“生き残り”ではなく“覚悟する文明”としての仏教
 ノアの方舟の大洪水のような大災害が地球を襲って、大部分の人間が死ななければならないという運命に落とされたとき、オレも一緒に死んでいこう、我また多くの人々と共に死滅しようという物語、そういう“覚悟する文明”というものがある。それが仏教の無情の物語であり、老子や荘子が考え出した混沌という物語である。
 “生き残り戦略”に対する“無常戦略”と云うべきか。

20世紀は夏目漱石の時代~21世紀に引き継ぐのは宮沢賢治
 「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という、いわば人類的な黄金の戒律を裏切り続けてきたのが人間だという、その痛烈な認識を文学作品に表した、これが漱石である。
 ところがこれからは、あらためてその3つの文言はどういう意味かというのを考えなければならない時代になってきた。
 それを象徴する作家が宮沢賢治である。
 賢治は黄金律を自分の生活の場で実践するとすればどういうことができるのか、ということを考え続けた男である。とりわけ『なめとこ山の熊』(熊捕りの名人が最後に熊のために自分の体を投げ出して食べさせる物語)にその問題が現れている。「オレはお前たちを捕って食べてそれで生活してきた、だから最後はオレの体をお前たちにやろう」と。熊と人間との関係はギブ&テイク、まったくの平等な関係という世界観。それは犠牲の精神の具現化というレベルの話ではない。人間が動物のために犠牲になるという考え方は、動物を対等に扱っていないことになる。人間は動物を殺して食べる、動物もまた人間を襲って人間の肉を喰らう、そのことを受け入れるという思想。
 人間は動物を殺して食べてもいいけれど、動物は決して人間を襲って食べてはいけないという倫理を、我々が勝手に作った。その歴史が数千年続いているわけで、それを銅生産するかという問題である。

海を見た民族・宗教家
 海を眺めることのできた民族と、まったく見ることのできない民族とは、精神形成においてものすごく違いがある。
 日本の代表的な宗教家(親鸞、道元、空海、最澄)は、海によって精神的に成長している。
 海は無限、山は有限。
 キリストは砂漠地帯で生きたが地中海を見ている、一方ブッダは海を見ていない。

武力を持たないで武力をコントロールしてきた公家の思想
 日本人の潜在能力は「ニコニコへらへら生き抜いていく」「風に柳」という感じ。
 「二枚腰」「三枚腰」「二重三重の複眼的な思考」は公家的なものの考え方。身に寸鉄を帯びずして、軍事力を一つも持たずに、武力というモノをコントロールしてきた、千年の歴史は一種の“日本的非暴力”である。
 ところが現代社会は、その曖昧、中途半端、いい加減を、ほぼ全面的に否定する。「間」のない文化は窮屈である。

人類が唱え続ける「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」という黄金律は実現不可能?
 “近代化”とは“殺し合わないでいける方法”?
 大昔から「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」ということを言い続けてきた。モーゼが云い、ブッダが云い、あらゆる宗教のリーダーたちが言い続けた黄金律。ところが人類はこれを裏切り続けてきている。
 現代では黄金律をうまく言い換えてマイルドな響きにしている。「殺すな」を「命を大切に」と言い換え、「嘘を言うな」という代わりに「真実を語ろう」、「盗むな」の代わりに「与えよ」と云っている。
 これは黄金律を「もうそろそろあきらめようや」と言い始めていると見ることも可能であり、危機的である。

ヨーロッパの矛盾
 大航海時代にヨーロッパの国々があちらこちらの出かけていって略奪三昧し、ヨーロッパは富み、産業革命を経てさらに豊かになった当たりでヒューマニズム(人文主義)が出てきた。メチャクチャ他の世界をやっつけて、そこから奪っていったもので金持ちになって余裕が出てきて、ヒューマニズムが出てきたというのが、笑っちゃうね(五味)

キリスト教以前・以後のヨーロッパ
 古代ギリシャは非常に科学的で冷静に物を見ている。明るくてエロティックで生命を謳歌していた。
 それがキリスト教という一神教が出てきて灰色に変わった。
 塩野七生の『ローマ人の物語』では、キリスト教がヨーロッパの国教になるまでは、ヨーロッパ(ギリシャ、ローマ)の歴史は上昇している。キリスト教が国教化されたときからローマは衰亡の道を辿り始めたという歴史認識を示している。
 上昇した段階の宗教は多神教、一神教になって下降する。

人間の完成度は半分位まで来た、いや来ない
 脳と内臓器官と消化器官と筋肉、血管、神経、その繋がりがどうなっているかということになると、西洋医学でもお手上げ状態。局部的な研究はできているけれども。
 ところが、全体の体の流れがどうなっているか、これについては漢方、東洋医学の方が非常に進歩している。
 
永遠に生きる天津神と寿命のある国津神
 日本の記紀神話の中において、天津神、天上の高天原で活動した神々の世界には、神が死ぬという考え方はなかった。
 ところが、天孫降臨以降は地上の神々ー国津神が出てきた。この国津神というのは全部死んでお墓に葬られている。つまり、神々は死ぬんだよという考えが出てきた。天孫降臨したニニギノミコト以降、神武天皇にいたる尊たちは全部、日向の周辺の山陵(みささぎ)に葬られている。

生け贄の歴史
 日本は、民俗学の研究では生贄としてかつては人間を殺していた。やがて人間から動物とか鳥を殺すことへと変わっていった。たぶんかなりすごく古い時期に。
 アステカでは15世紀まで人肉を喰っていた。

世界中にある太陽信仰
 人類の歴史というのは、最初は太陽信仰がほとんど地球を覆っていたような気がする。エジプトも日本も、どこ行ったってお天道様信仰。そこへ一神教が出てきて、神が出てくる。神と太陽の戦いの時代があって、これが人類史における重要な戦いだったのかもしれない。やがて太陽信仰がやっつけられて、神信仰が前面に出てくる。キリスト教とそれ以前の宗教との戦いも含めて、それ以来、人類は不幸に陥ってきたと考えられる。

文明は砂漠から
 人類というのは乾いた風土から創造的な物を生み出してきたという感じがあって。大きな声では言えないけれど、農業地帯からはあまり創造的な物を生み出していない。何もしなくても、天然の恵みがたくさんあるから、創造的な思考力を必要としない。

間伐材で人間を焼こう
 森が非常に荒れ始めている。間伐が必要だが、間伐材をどうするかが次の問題になる。昔の日本人にとって間伐材は燃料だった。そのエネルギー資源が、石油あるいは原子力に取って代わられ、放ったらかしにされたら山が荒れた。
 私(山折)の提案は「間伐材で人間を焼こう」ということ。インドでは今でもそうしている。
 人が亡くなれば、山から切り出してきた薪や柴を積んで、最小限の油をかけて焼く。じーっと4時間。白骨化するまで見送る。それをガンジス川のように目の前の鴨川に流す。そういうところまでいけば、我々は初めて万葉の時代に戻ることができる。
 今は石油を使って人間を焼いている。火葬場で焼いている。

極楽のイメージ
 日本人にとっての極楽は、魂になって山の上に行って神様仏様になる、ただそれだけ。
 絢爛豪華な極楽をイメージしたのは乾燥地帯の人たち。

キーワードは“捨て子と多聞”
 人間というのは要するにみんな捨て子。
 ブッダ自身、生まれて7日目にお母さんが亡くなって捨て子状態。それから自分の子どもに「悪魔」という名前をつけている。その名前をつけることによって子どもを一遍捨てている。そして出家をして、妻と子どもを勝手に捨てて自分は一人旅に出てしまった。ここでも捨てている。つまり、ブッダの子どもは二重に捨てられていることになる。
 その仕打ちを受けた子どもは、絶対に父親に対する殺意を抱いたと思う。
 最後にその捨てた子どもは釈迦の9番目の弟子(羅睺羅、ラゴラ)になる。
 二度捨てられて父親に敵意を持ち殺意を抱いたに違いないその子どもが、最終的にはその父親の弟子になるという構図。これはもう、人類が二千年、三千年追求してきた大いなる謎に対する答えが、そこに横たわっているという気がする。
 私(山折)の直感では、親父に対する敵意まで持つに至った羅睺羅の不平不満、愚痴、身の上話を、朝から晩まで年がら年中聞いて聞いて聞いた人間が、阿難尊者(10番目の弟子、特徴は“多聞”)だったのではないか、究極的にカウンセリングをしていたんだろうと思う。聞くということに優れた阿難が側にいたから、羅睺羅は立ち直ることができたのだ、と。
 学生と教師、あるいは患者と医者、患者とカウンセラー、その根本の問題は“聞く”っていうことだろうと思う。母親と子ども、父親と子ども、その関係で一番大事なのは、やはり“聞く”ということ。それで開放されていく。

「人というのは罪を犯すものだ」への2種類の対応
1.殺すな、嘘を言うな、盗むなという黄金律を守らせる
2.聞いて聞いて聞くことに徹する
 すべての宗教的なシステム、人間の知恵として、そういう2つの方法があった。

ユングの慧眼
 今日、臨床心理学、ユング的な心理学というのは非常に多くの人に受け入れられ、ほとんど宗教の変わりをしている。
 聞く人間がいないと必ず狂気を発する、不安定になる。それがさまざまな犯罪を発生させる原因になっているということを、ユングは非常に早い時期に知っていた。
 彼は西洋文明の危機的な状況を肌で感じていた。それがフロイトに対して反抗していく契機になる。

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