知らない世界へ帰りたい(日本探求)

自分の祖先はどんなことを考えていたのか・・・日本人の来し方、行く末を読み解く試み(本棚10)。

「沈黙を破る手紙〜戦後70年目のシベリア抑留」(2015.9.6:NHK、ETV特集)

2016年08月06日 21時43分20秒 | 震災
番組内容
太平洋戦争終結後、57万以上の人々がソ連の収容所に連行され、少なくとも5万5千人が犠牲になった、「シベリア抑留」。京都府の舞鶴市で、シベリア抑留の知られざる断面を物語る貴重な資料が見つかった。それは、当時公表されていなかった抑留者の安否と帰国の予定を、その家族に伝えた手紙。終戦後、生死もわからず、いつ帰るとも知れない夫や子を待ち続ける家族にとっては、まさに"希望の手紙"だった。
当時シベリアに抑留されていた人々の多くは、氷点下40度を下回る屋外で、森林伐採や鉄道敷設といった肉体労働に従事。みずからの生死を家族に知らせる手段さえなかった人がほとんどだったという。そうした中、なぜ、抑留者の安否を知らせる手紙が届けられたのか?
カギとなったのは、アメリカとの冷戦下にあったソ連が、共産主義のプロパガンダのために放送していたという国営ラジオ放送。そのラジオ番組を通じて、大阪に住んでいたひとりの青年と、抑留されていた元新聞記者とが偶然にもつながれ、700通にも及ぶ希望の手紙に結びついたのだった。 戦後70年。時を経て見つかった手紙の先にあったのは、終戦後も戦争と国家に翻弄された抑留者と家族たちの苦難。さらに、手紙の発見をきっかけに、封印していた記憶を語り出した元抑留者や、教科書の中でしか知らなかった戦争を身近な問題として捉え始めた若者もいる。
今、手紙が私たちに問いかけることとは何か?いまだ癒えることのない抑留者や家族一人一人の声に耳を傾ける。


二人のキーマンが登場します。
一人目は、シベリア抑留者で元樺太の新聞記者である木村慶一さん。
彼の抑留生活は寒さに凍える肉体労働ではなく、モスクワ放送の日本語放送を担当することでした。
その内容は、日本へ向けて共産主義の優秀性をひたすら訴えるプロパガンダ放送。
そのほんの一部を使って、シベリア日本人抑留者の安否情報を流したのでした。

二人目は、シベリア抑留者の安否情報を手紙に書いて家族に送った電気工の坂井仁一郎さん。
彼はモスクワ放送の日本語放送をラジオで聞いて、それを筆記したのでした。
安否情報が流れた人たちは、実際にその後舞鶴港へ帰国することになりました。

なぜこんな事が起きたのか?

太平洋戦争を終結させたポツダム宣言には「敗戦国の捕虜を速やかに帰国させる」というルールがありました。
しかしソ連は、日本人をシベリアに抑留し労働させるという行為を続け、そのルール違反は国際社会から強く非難されていました。
抑留者の安否情報はその批判をかわすトリックだったのです。
ソ連のずるい体質は昔から変わらないのですね。

シベリア抑留の目的は強制労働だけではありません。
抑留している日本人に思想教育を行い洗脳し、その後帰国させて共産主義を日本に広めるという目的もありました。
つまり、抑留者はプロパガンダを目的とした武器に仕立て上げられたのです。

実際にシベリア抑留からの引き揚げ者の中に、共産党へ入党したり、町中で赤旗を振ってデモ行進を行う人もいました。
そのため、引き揚げ者は「アカ」と呼ばれて差別され、就職できない状況も発生したそうです。
どう転んでも、戦争は不幸な人を作り出します。

ハバロフスクにあった日本人収容所は1953年に取り壊されました。
今は草原になっており、そこに収容所があったことを知る人は少なくなりました。

戦争の歴史が風化すると、戦争経験のない人たちが、また戦争を仕掛けるというのが歴史・・・やりきれない気持ちだけが残りました。

戦争中の強制労働の補償について。
中国人や韓国人が日本政府や企業に対して訴訟を起こし、見舞金をもらっているけど、シベリア抑留された日本人はなぜ訴えないのでしょうか?
筆舌に尽くしがたい経験であり、口を閉じて墓場まで持って行くということ?
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